第2話:処刑台のムニエルと、背後からの甘い絞め技
翌日の放課後。
私、氷室玲奈の脳内CPUは、朝のホームルーム時点ですでにオーバークロック状態にあった。
授業の内容など1バイトも頭に入ってこない。
ノートに書き連ねているのは、黒板の数式ではなく、今日の部活動のシミュレーション・フローチャートだ。
『放課後 → 彼が来る(確率100% ※入部届受理済み)』
『挨拶 → 笑顔で(要練習)』
『メニュー → 昨日の鮭(消費期限的にマスト)』
『イベント → 共同作業(彼との距離が縮まるチャンス!)』
完璧だ。
このロジックにバグが入り込む余地はない。
昨日の今日で、新入部員――日向太陽くんが部室に来てくれる。
これはもう、実質的な「放課後デート」と言っても過言ではないのではないか?
いや、過言ではない(反語)。
(落ち着け、私。浮かれるな。部長としての威厳を保ちつつ、優しくリードするのよ)
私は深呼吸をして、昂る感情を冷却システムで強制的に鎮火させる。
放課後のチャイムが鳴ると同時に、私は競歩選手も裸足で逃げ出す速さで教室を飛び出し、家庭科室へと向かった。
誰よりも早く到着し、彼の受け入れ態勢を整える。
それが「出来る女」の嗜みだ。
***
15時45分。家庭科室。
私は、シンクの前に直立不動で待機していた。
昨日の「血まみれの惨劇(に見えた解体ショー)」の痕跡は微塵もない。
調理器具はミリ単位で整列され、ステンレスの台は顔が映るほど磨き上げられている。
完璧な衛生管理。
完璧なセッティング。
(早く来ないかな……)
私は入り口の引き戸を凝視し続ける。
瞬きすら惜しい。
彼が入ってくるその瞬間を、1フレームも見逃したくない。
その結果、私の表情は無意識のうちに硬直し、目は血走っていたかもしれないが、私の脳内モニターには「待ちわびる乙女の儚げな表情」が出力されているはずだった。
ガララ……。
控えめな、あまりにも遠慮がちな音がして、引き戸が数センチだけ開いた。
隙間から、恐る恐る中を覗き込むような視線。
小動物のような茶色の瞳と目が合う。
「あ……」
彼だ。
太陽くんだ。
本当に来てくれた!
昨日、あんなに強引に入部させてしまった(と自分でも少し反省している)から、もしかしたら怖がって来ないかもしれないという不安が、僅かにあったのだ。
けれど、彼は律儀に約束を守った。
(なんて誠実なの! やっぱり彼は運命の相手だわ!)
私の脳内で歓喜のラッパが鳴り響く。
私は努めて冷静を装い、練習通りに口角を上げた。
「……遅い」
(訳:待ちくたびれたわ。早く会いたかったのよ)
やってしまった。
照れ隠しと緊張が化学反応を起こし、第一声が「遅刻を咎める上官」のようなトーンになってしまった。
実際にはまだ部活開始時刻の5分前なのだが。
「ひっ! す、すみません! 掃除当番で少し手間取って……! すぐ支度します! 命だけは……!」
彼は弾かれたように室内に入ってくると、直立不動で敬礼に近いポーズをとった。 顔色は昨日よりも少し悪い気がする。 掃除当番? そんな雑用を彼に押し付けるなんて、どこのどいつだ。後で名簿を洗って「教育」してやる必要があるかもしれない。
「……冗談よ。準備して」
私は視線を外し、手元のエプロンを指差した。 彼は「は、はいっ!」と裏返った声で返事をすると、逃げるようにロッカーへ向かい、真新しいエプロンを装着し始めた。
その背中を見ながら、私は今日のお題について思考を巡らせる。 昨日の鮭だ。 半身は刺身(餌付け)で消費したが、残りの半身とアラが冷蔵庫に眠っている。 一度解凍したものを再冷凍するのは品質劣化を招く。今日中に火を通して消費するのが料理人としての責務であり、部長としての義務だ。
「今日は、これを使うわ」
私は冷蔵庫から、昨日きれいに切り分けた鮭の切り身が入ったバットを取り出した。 それを見た瞬間、彼の肩がビクリと跳ねた。
「さ、鮭……昨日の……」
「ええ。命を無駄にはできないもの」
「そ、そうですよね! 骨の髄までしゃぶり尽くす……それが流儀ですよね!」
彼は何故か必死な形相で同意した。 「骨の髄まで」という表現に若干の狂気を感じなくもないが、食材を大切にする姿勢は素晴らしい。やはり彼は見込みがある。
「メニューは『鮭のムニエル・タルタルソース添え』よ。初心者のあなたでも失敗が少ないし、昨日の身は脂が乗っているから、焼くだけで美味しくなるわ」
「ムニエル……おしゃれですね(毒殺しにくい料理でよかった……)」
彼が後半何か呟いた気がしたが、換気扇の音にかき消された。 私は彼に調理台の前に立つよう促す。 いよいよ、共同作業の始まりだ。
「まずはタルタルソースを作るわ。玉ねぎのみじん切り、できる?」
「み、みじん切りですか? 家庭科の授業で少しやったくらいで……」
「やってみなさい。何事も経験よ」
私は腕組みをして、彼の背後に立った。 いわゆる「監督ポジション」だ。 至近距離で彼を見守ることができる特等席であり、彼からすれば「背後を取られた」というプレッシャーが半端ではない位置取りである。
彼は震える手で包丁を握り、皮を剥いた玉ねぎと対峙した。 ココン、ココン……。 危なっかしい音が響く。 リズムが悪い。猫の手になっていない。腰が引けている。 見ているだけでハラハラする。
(ああっ、もう! 危ない! 指切りそう!)
私の完璧主義者としてのセンサーと、好きな人が怪我をするかもしれないという不安が同時にアラートを鳴らした。 彼は玉ねぎの層に翻弄され、包丁の刃があらぬ方向を向いている。 このままでは、タルタルソースが「鮮血ソース」になってしまう。
「……ストップ」
私は耐えきれず声を上げた。 彼は「ビクッ!」として動きを止め、恐怖に引きつった顔で振り返ろうとした。
「動かないで」
私はそれを制し、彼の一歩後ろから、さらに距離を詰めた。 私の胸が、彼の背中に触れるか触れないかのゼロ距離。 身長差があるため、私が彼を上から覆いかぶさるような形になる。
「包丁の持ち方がなってないわ。力みすぎよ」
私は彼の右手に、自分の右手を重ねた。 そして、左手で彼の左手(猫の手になっていない手)を包み込むように押さえる。
いわゆる「二人羽織」の状態。 あるいは、映画『ゴースト』の陶芸シーンのような、超密着指導体勢。
(きゃああああああああ!!)
私の脳内サーバーが、熱暴走で緊急停止寸前まで追い込まれた。 近い。近い。柔らかい。 彼の体温が背中越しに伝わってくる。シャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。 私の手の中に、彼の手がある。 これは夢? 幻覚? いいえ、現実(リアル)!
「……い、いい? 手首の力を抜いて。包丁の重みを利用するの」
私は動揺を悟られないよう、必死に声を低くして言った。 しかし、その声は耳元で囁く形になり、吐息が彼のうなじにかかる結果となった。
一方、彼の視点(および脳内)。
『背後を取られた!』 『拘束された!』 『右手を封じられ、左手も制圧! 完全なCQC(近接格闘術)だ!』 『耳元で吐息……「急所はここよ」って確認されてる!?』
彼は石のように硬直していた。 心拍数が上がっているのが伝わってくるが、私はそれを「彼もドキドキしてくれているのね!」とポジティブに誤変換する。
「行くわよ。トントン、ってリズムよく」
私は彼の手を握ったまま、私の意志で包丁を動かし始めた。 トントントントントン……。 私の熟練したハンドリングにより、玉ねぎが瞬く間に均一なサイズに刻まれていく。 小気味よい音が、二人の心音と重なる(ような気がした)。
「す、すごいです先輩……! 勝手に手が……!」
「ふふ、でしょう? 身を委ねなさい」
(訳:私に任せておけば大丈夫よ) (解釈:抵抗しても無駄だ。お前の生殺与奪の権は私が握っている)
恐怖とときめき。 技術指導と拘束プレイ。 二つの全く異なるコンテキストが同居するキッチンで、私たちは初めての「共同作業」に没頭していた。 玉ねぎが目に染みて彼が涙目になっているのを、私は「感動して泣いている」のだと信じて疑わなかった。
「……はい、終わり」
私の手の中で、彼の手が最後のひと刻みを終えた。 まな板の上には、機械でカットしたかのように均一な玉ねぎのみじん切りが山を作っている。 完璧だ。私の完全制御(コントロール)下で行われた作業なのだから、当然の結果である。
私は名残惜しさを感じつつ、ゆっくりと身体を離した。 背中から伝わっていた彼の体温が消え、少しだけ肌寒さを感じる。 ああ、ずっとこのまま「二人羽織クッキング」を続けていたかった。 なんなら、このまま一緒に住んで、毎日朝ごはんを作る時もこうやって……。
(って、何を考えてるの私は! 部室よ! 神聖な学び舎よ!)
暴走しそうになる妄想を振り払い、私は一歩下がって彼を見た。 彼は、魂が抜けたように呆然と立ち尽くし、まな板の上の玉ねぎを見つめていた。 そして、その横顔は――耳まで真っ赤に染まっていた。
(あ……)
私の心臓が大きく跳ねた。 赤い。彼の顔が、赤い。 やっぱり、意識していたんだ。 私が後ろからあんなに密着したから。耳元で囁いてしまったから。柔らかい感触が当たってしまったから。 初心(うぶ)な反応。なんて可愛いの。
けれど、同時に強烈な羞恥心が遅れてやってきた。 私、大胆すぎた? 「肉食系女子」って思われた? いや、もしかしたら「氷の女帝も、意外と隙があるな」なんて、私の女としての部分を意識してくれているのかも?
混乱する思考回路。 恥ずかしさを誤魔化すために、私は防衛本能(ツンデレ・ファイアウォール)を起動させた。 照れていることを悟られてはいけない。あくまで「指導の一環」だったと強調しなければ。
私は腕を組み、精一杯の「冷徹な部長」の仮面を被り直した。
「……何、ぼーっとしているの」
私の声に、彼はビクリと肩を震わせた。 ゆっくりとこちらを向く彼の顔は、やはり茹でダコのように赤い。 玉ねぎ成分のせいか、それとも極度の緊張による血圧上昇のせいかは定かではないが、私には「欲情の赤」に見えた。
「か、顔、赤いわよ」
指摘すると、彼はさらに動揺したように視線を泳がせた。 図星ね。可愛いんだから。 でも、ここは釘を刺しておかなければ。部長として、風紀を守る者として。
「まさかとは思うけど……今、不埒(ふらち)なこと、考えてたんじゃないわよね?」
(訳:ドキドキしちゃった? 私のこと、意識してくれた?)
少し意地悪な質問。 「そんなことないです!」と慌てる彼が見たくて、つい口をついて出た言葉だった。 ちょっとした恋の駆け引き。ラブコメの定石。
しかし。 私の言葉を聞いた瞬間、彼の顔に起きた変化は、私の予測レンダリングを遥かに超えていた。
サーッ……。
音が聞こえるほどの勢いで、彼の顔から血の気が引いていったのだ。 赤から白へ。茹でダコから、茹でる前のイカへ。 鮮やかなるグラデーション。
(えっ?)
彼の瞳孔が開く。 『不埒なこと』。 その単語が、彼の脳内でどのように検索・翻訳されたのか、私には知る由もない。
――日向太陽の脳内検索結果―― 【不埒(ふらち)】
道理に外れていて、けしからぬこと。
(権力者に対して)反逆、逃亡、謀反を企てること。
処刑対象となる思想。
「め、めめめ、滅相もございませんッ!!」
彼はブンブンと首を振った。残像が見えるほどの高速ヘッドバンギングだ。
「断じて! 神に誓って! 不埒なことなど微塵も! ただ、玉ねぎが! 玉ねぎの成分が強力すぎて、目が、粘膜がやられただけであります!!」
必死の弁明。 額には脂汗が滲んでいる。
(……なーんだ)
私は内心で少し落胆した。 玉ねぎのせいか。私の魅力のせいじゃなかったのね。 でも、そこまで必死に否定しなくてもいいのに。そんなに私が怖いのかしら(照れ隠しで睨んでいる自覚はない)。
「……なら、いいけど。さっさと手を動かしなさい。次は焼くわよ」
「はいっ! 直ちに!」
彼は逃げるようにボウルを掴み、みじん切りにされた玉ねぎとゆで卵を混ぜ合わせ始めた。 その背中からは、「助かった……思考を読まれたかと思った……」という安堵のオーラが立ち昇っているように見えたが、私はそれを「料理への集中モードに入った」と解釈することにした。
気を取り直して、メインディッシュの調理に移る。 鮭の切り身に塩コショウを振り、小麦粉を薄くはたく。 この工程は彼に任せた。手が震えて粉が少し舞ったが、許容範囲だ。
「フライパンにバターを入れて。火加減は中火」
私の指示通り、彼はフライパンを火にかけた。 固形のバターが熱い鉄板の上を滑り、シュワシュワと音を立てて溶けていく。 瞬時に立ち上る、濃厚で芳醇な香り。
焦がしバターの匂い。 それは、人類のDNAに刻まれた「幸福」の香りだ。 張り詰めていた空気が、少しだけ緩むのを感じた。
「……いい匂い」
彼がポツリと漏らした。 その顔からは、先ほどまでの「処刑前の囚人」のような悲壮感が少し消えている。
「でしょう? バターは裏切らないわ」
「は、はい。バターだけは、僕の味方をしてくれる気がします……」
バター「だけ」という部分に深い闇を感じなくもないが、料理の魅力に気づき始めた証拠だ。 私は満足げに頷く。
「さあ、身を入れて。皮目から焼くのよ」
ジュワァァァ……!
水分を含んだ身が脂と出会い、食欲をそそるサウンドを奏でる。 彼は恐る恐る、しかし真剣な眼差しでフライパンを見つめている。 私はその横顔を、少し離れた位置から(もうバックハグはしない、我慢だ)見守った。
「火が強すぎるわ。少し弱めて」 「あ、はい!」 「触りすぎない。身が崩れるわよ」 「す、すみません!」 「……今よ。裏返して」
私の的確なナビゲートにより、彼は最適なタイミングで鮭をひっくり返した。 現れたのは、完璧なキツネ色の焼き目。 カリッと香ばしく、中はふっくら。プロ顔負けの火入れだ。
「おお……っ!」
彼は歓声を上げた。 自分の手で(私の指示通りに動かしただけだが)、これほど美しい焼き色を作り出したことへの純粋な驚き。
「仕上げに、さっきのタルタルソースをかけて……完成よ」
皿に盛り付けられたムニエル。 黄金色の鮭に、白と黄色のコントラストが鮮やかな手作りソースがたっぷりと掛かっている。 付け合わせのパセリの緑が、彩りを引き締める。
完璧だ。 家庭科部の活動報告書に写真を貼れば、校長賞が貰えるレベルの出来栄えだ。
「……食べてみなさい」
私は彼にフォークを手渡した。 毒見ではない。試食だ。 彼が自分の手で作った料理の味を知り、達成感を得るための儀式。
彼はゴクリと喉を鳴らし、フォークを受け取った。 昨日、私の手から直接食べた(食べさせられた)刺身の味を思い出しているのだろうか。 少しだけ躊躇した後、彼はナイフを入れ、一口大に切り分けた身を口へと運んだ。
サクッ、という衣の音。 そして、彼が咀嚼を始めた瞬間。
「……!!」
彼の目が、カッと見開かれた。 本日二度目の開眼。しかし今回は、恐怖ではない。
バターのコク。鮭の脂の甘み。 そして、自分ですり潰した卵と玉ねぎの食感が残る、濃厚なタルタルソースの酸味。 それらが渾然一体となり、口の中でオーケストラを奏でている。
「う……うまい……」
震える声。 それは、昨日とは違う種類の震えだった。
「これ、本当に僕が作ったんですか……? 今までカップ麺のお湯すらこぼしていた僕が……?」
「私がついていたんだから、当然の結果よ」
私は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。 本当は「すごいでしょ! 美味しいでしょ!」と手を取り合って喜びたいが、ここは先輩風を吹かせておく。
「……悪くないわ。初めてにしては、上出来よ」
私はそっぽを向きながら、彼に聞こえるか聞こえないかの音量で付け加えた。
「……まあ、筋はいいかもね」
デレの供給。 アメとムチの黄金比率。 これで彼は、完全に料理の虜になるはずだ。
彼はこちらを見て、呆然とした表情のまま、しかし確かな「安らぎ」をその目に宿していた。
(死ななかった……) (怒られなかった……) (その上、めちゃくちゃ美味い……)
彼の心の警戒レベルゲージが、『緊急事態宣言』から『まん延防止等重点措置』くらいまで引き下げられる音が、私には聞こえた気がした。
彼が最後の一切れを口に運び、飲み込むのを、私は固唾を呑んで見守っていた。 綺麗になったお皿。 それは、料理人にとって最高の賛辞であり、部長としての私の指導力が勝利した証だ。
「……ごちそうさまでした」
彼は手を合わせ、深々と頭を下げた。 その表情には、入室時の「死刑執行直前の囚人」のような陰りはなく、満腹と満足による一種の陶酔感が漂っていた。 頬が少し緩み、目尻が下がっている。
(か、可愛い……!)
私の脳内ハードディスクに、今の笑顔が高解像度で保存された。フォルダ名は『天使_笑顔_永久保存』だ。 バターとタルタルソースというカロリーの暴力によって、彼の警戒心(ファイアウォール)は一時的に無効化されているようだ。
「どうだった? 自分で作った味は」
私はあえて腕を組み、調理台に腰を預けて(ポーズは「余裕のある先輩」を意識して)尋ねた。
「はい……驚きました。僕にもこんな料理が作れるなんて」
彼は自分の手のひらをまじまじと見つめている。
「先輩の指示通りに動いただけなのに、魔法みたいです。バターの香りも、ソースの味も、お店で食べるみたいで……」
「ふん、当然よ。私の指導(コマンド入力)は完璧なんだから」
私は鼻を鳴らした。 本当は「魔法じゃないわ、愛よ!」と言いたいところだが、今の関係性ではまだ早い。焦りは禁物だ。
その時だった。
ガラララッ!
家庭科室の引き戸が、遠慮のない音を立てて勢いよく開いた。 静謐な空気が破られ、廊下の喧騒が流れ込んでくる。
「れーいなっ! 部活やってるー?」
軽快な声と共に現れたのは、小柄な女子生徒。 私の幼馴染であり、クラスメイトの小暮柚葉(こぐれ ゆずは)だ。 身長150センチそこそこの小動物系だが、その中身は小悪魔……いや、時として悪魔そのものになる厄介な存在だ。
「……柚葉。ノックくらいしなさい」
私は眉をひそめた。せっかく彼と二人の世界(ワールド)に浸っていたのに。
「ごめんごめん。いやー、玲奈が本当に新入部員を捕まえた(・・・・)って噂を聞いてさ。野次馬に来ちゃった」
柚葉はニシシと笑いながら、教室に入ってくる。 そして、調理台の前に立つ彼――太陽くんを見つけると、目を丸くして近づいていった。
「おー、本当だ。男子じゃん。しかも、なんか無害そうな草食系」
彼女は太陽くんの周りをグルグルと回り、品定めするようにジロジロと観察し始めた。 太陽くんは、突然の闖入者に戸惑い、また少し縮こまっている。
「あ、あの……」
「初めましてー! 私、玲奈の友達の小暮柚葉。よろしくね、新入部員くん。……名前は?」
「ひ、日向太陽です……」
「太陽くんかー。へぇー」
柚葉は意味ありげにニヤニヤしながら、私の方を振り返った。
「やるじゃん、玲奈。あんた好みの『いじりがいがありそうな子』を見つけてきたねぇ」
(訳:素敵な男の子を見つけたね、玲奈!)
「……べ、別に。彼が勝手に入部したいって言ってきたのよ。私はそれを許可しただけ」
私はプイッと顔を背けた。 柚葉には私の「脳内パニック」がバレている。これ以上、彼女の前で素直な反応を見せるのは危険だ。
柚葉は「はいはい」と肩をすくめると、流し台にある空になったお皿に目を留めた。 そして、鼻をひくひくさせる。
「ん? いい匂い。バターと……鮭? まさか玲奈、昨日さばいたアレを使ったの?」
「ええ。食材を無駄にはできないでしょ」
「へぇー……」
柚葉は再び太陽くんに向き直り、同情と感嘆が入り混じったような、奇妙な表情を向けた。
「太陽くん、これ食べたんだ?」
「は、はい。すごく美味しかったです」
太陽くんが素直に答えると、柚葉は「マジか」と小さく呟き、彼の肩をポンと叩いた。
「すごいね、君。玲奈の『手料理』を食べて、無事(・・)だったんだ」
その一言に、太陽くんの笑顔がピクリと引きつった。
「え……? 『無事』って……どういう……?」
「いやいや、なんでもないよ。たださ、玲奈の料理って、色んな意味で『重い』からさ。物理的(カロリー)にも、精神的(怨念)にも」
柚葉は私の聞こえないギリギリの音量で、彼に何かを囁いている。 何を吹き込んでいるのかしら。 きっと、「玲奈の料理はプロ級だから、舌が肥えちゃうよ」とかなんとか、私の株を上げてくれているに違いない。持つべきものは友だわ。
しかし、太陽くんの顔色は、先ほどの「幸福なピンク色」から、徐々に「不安な青色」へと戻りつつあった。
(あれ? なんでまた怯えてるの?)
柚葉の翻訳(誤訳)スキルが発動しているとは露知らず、私は首を傾げる。 柚葉はニヤリと笑い、私に向かってウインクをした。
「ま、頑張りなよ太陽くん。一度玲奈のテリトリー(胃袋)に入っちゃったら、そう簡単には逃げられないからね」
「……っ!!」
太陽くんが息を呑む音が聞こえた。 「逃げられない」。 その単語のチョイスは、今の彼にとってあまりにも劇薬だったようだ。 しかし、口の中に残るバターの幸福な余韻が、かろうじて彼のPTSD発症を食い止めていた。
「さ、邪魔者は退散するかな。ごゆっくりー」
嵐のように現れ、不穏な種だけを撒いて、柚葉はひらひらと手を振って去っていった。 教室内には、再び私と彼、二人きりの時間が戻ってくる。
少し気まずい沈黙。 柚葉のせいで、彼がまた緊張してしまった気がする。 フォローしなくては。
「……変な友達でごめんなさいね。悪気はないの」
私は努めて優しく声をかけた。
「い、いえ! 明るい方ですね……」
彼は引きつった笑みを浮かべた。 そして、壁掛け時計を見る。時刻は17時を回ろうとしていた。
「あ、あの、今日はそろそろ……」
「そうね。今日はここまでにしましょう」
これ以上引き止めて、ボロが出るのも怖い。 今日は「成功体験」という最高のお土産を持たせて帰すのが、戦略的にも正解だ。
「片付けは私がやっておくわ。あなたは帰りなさい」
「えっ、でも悪いです!」
「いいの。新人のうちは、先輩に甘えなさい」
(訳:あなたの使った食器を洗うのすら、私にとっては幸せな時間なのよ!)
私はゴム手袋をはめ、スポンジを手に取った。 彼は恐縮しきりで、何度も頭を下げながら出口へと向かう。
「ありがとうございました! 料理、本当に美味しかったです!」
「……ええ。また明日」
私は背中を向けたまま、短く答えた。 顔を見たら、ニヤけているのがバレてしまうから。
ガララ……トン。
引き戸が閉まり、彼の足音が遠ざかっていく。 私はシンクの前に立ち尽くし、彼が綺麗に平らげたお皿を手に取った。 スポンジで泡立てながら、こみ上げてくる笑いを堪えきれず、ついに口元が緩む。
「……ふふっ」
やった。やったわ。 彼、完食してくれた。 「美味しかった」って言ってくれた。 「また明日」って言ったら、頷いてくれた。
これはもう、実質的なプロポーズ受諾と言ってもいいのではないだろうか? 胃袋を掴む作戦は大成功だ。 この調子で毎日餌付けしていけば、彼は私なしでは生きられない身体になるはず。
(明日は何を作ろうかしら。肉じゃが? ハンバーグ? それとも……)
私の脳内サーバーは、未来の献立と妄想で再びフル稼働を始めた。 外は夕焼け。 家庭科室の窓から差し込む赤い光が、私の笑顔を不気味に照らし出していることなど、今の私には知る由もなかった。
一方、廊下を歩く太陽。 彼の足取りは、昨日よりは幾分か軽かった。
『……怖かった。死ぬほど緊張した』 『あの友達(柚葉さん)が言ってた「重い」って言葉、気になるけど……』
彼は自分の手のひらを見つめ、先ほどの感触を思い出す。 自分の手で作ったムニエル。 そして、背後から支えられた(羽交い締めにされた)玲奈の手の温もり。
『でも……美味かったな、あれ』
恐怖と食欲の天秤。 今日は僅差で「食欲」が勝ったようだ。
『明日も……行ってもいいかな。殺されないなら』
バターの魔力に当てられた彼は、知らず知らずのうちに、自ら底なし沼へと足を踏み入れようとしていた。
4月の風が吹く。 私たちの関係は、まだ始まったばかりだ。
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