第2話 燃え残りの刻印と、初めての自由
第2話 燃え残りの刻印と、初めての自由
夜の風が、砂をさらりと転がしていく。
さっきまで喧噪と取引の声で満ちていた奴隷市場は、嘘みたいに静かになっていた。
昼間は「品物」として並べられていた人間たちも、今はそれぞれの檻や小屋に押し込められ、かすかなうめき声だけが闇の奥でくすぶっている。
砂の匂い。鉄の匂い。汗と血と、安物の香油の混じったにおい。
全部、薄く、決定的に汚れている。
そのはずなのに――
ハクタンの胸の中では、別の何かがざわついていた。
ロックの隣を歩きながら、彼女は服の上から胸元を押さえる。
そこには、もう見える刻印はない。
それでも、長い間そこに打ち込まれていた「杭」の幻が、まだ心臓の横でじくじくと疼いているように感じた。
(……ここから、本当に……出ちゃった……)
足元の砂が、いつもより軽い。
けれど、その軽さの意味を、身体のほうがまだ信じてくれない。
***
「……ロック。」
呼びかける声は、小さく、けれど驚くほど震えていなかった。
どうしていいのか分からない子どもの声。
それでも、「分からない」と言えるだけの力は、確かにあった。
「刻印……焼くの、今……?」
「今しかねぇ。」
ロックはあっさりと答えた。
黒いマントの裾が夜風に揺れる。
奴隷市場から少し離れ、人気のない路地に足を踏み入れると、周囲のざわめきが一段と遠のいた。
「場所変えたって、俺がやることは一つだ。
ぐずぐず伸ばしても、怖さは減らねぇ。」
ハクタンは唾を飲み込む。
痛みが怖いわけじゃない。
殴られる痛みも、蹴られる痛みも、とっくに覚えきっている。
怖いのは――
(この杭が、なくなったら……わたし、何になるの……?)
命令がなくなる。
命令で動かなくてよくなる。
それは、心臓の隣に空洞が生まれることと、ほとんど同じ意味だった。
ロックは横目で、ハクタンの横顔をちらりと見た。
「ビビるのは悪いことじゃねぇ。」
淡々とした声。
「選ぶときに怖いのは、まともなやつの証拠だ。」
「……まとも……」
その言葉を自分に向けられた経験が、ハクタンにはほとんどない。
自分のことを「弱い」「駄目だ」と責める言葉ならいくらでも知っているのに、まともだと言われたことは一度もなかった。
「……うん……」
短く返事をし、胸に置いた手に少しだけ力をこめる。
「わたし……痛いのは、ちょっと……嫌。」
「痛くしねぇよ。」
ロックは平然と言い切った。
誠実の火が、胸の奥でゆらりと揺れる。
ハクタンの目には、その揺らぎが、うっすらと白く透き通った“あたたかい何か”として見えていた。
「……ほんとに?」
「嘘ついてもメリットねぇだろ。
俺はお前の叫び声聞く趣味はない。」
乱暴な言葉のはずなのに、刺さらない。
そこに悪意も楽しさも乗っていないことを、ハクタンは本能で分かっていた。
肩から力がふっと抜ける。
「……なら……いい。」
「よし。」
ロックは立ち止まり、手でハクタンを自分のほうへ向き直らせた。
「胸、見えるようにしろ。
鎖骨の下あたりだろ。」
ハクタンは少しだけ躊躇し、それから決心したようにローブの襟を指先でつまんだ。
布をずらし、刻印のある場所を露わにする。
皮膚には何も浮かんでいない。
ただ、見えない針が何本も、そこに突き立てられているような違和感だけが残っていた。
ロックは、そこへ掌をかざした。
誠実の火が、音もなく、掌に集まっていく。
赤く燃え上がるわけではない。
淡い光が、薄皮一枚の下で静かに灯る。
「怖かったら目ぇ閉じてろ。」
ロックが言うと、ハクタンは小さく首を振った。
「……開けてる。
ちゃんと……見たいから……」
ロックの目が、ほんのわずかに細くなる。
(やっぱり、強ぇな、こいつ。)
誠実の火が、彼女の言葉に呼応するように、わずかに明るさを増した。
「……じゃあ、見てろ。」
ロックは指先をそっと下ろし、刻印のある位置に触れた。
その瞬間、ハクタンの身体の奥で、ひそやかな音がした気がした。
ずっと錆びついていた鎖がほどけるような、乾いたきしみ。
光がふっと広がる。
皮膚の下に染みついていた黒い影が、夜の闇に溶けるようにして消えていった。
痛みは――なかった。
あるのは、暖炉の前でうとうとしているときのような、淡く包み込む温もりだけ。
けれど、その温もりが広がるたびに、胸に食い込んでいた見えない杭が一本、一本と外れていく。
「……あ……」
ハクタンは小さく息を呑んだ。
胸の奥を締めつけていた重さが、ふっと消える。
空気が深く吸える。
肺の奥まで入った空気が、気持ちいいと感じる。
視界が、急に広くなった。
世界に色が戻ったわけではない。
ただ、自分の目の高さが、ほんの少しだけ変わったような感覚。
「……苦しく、ない……」
かすれた声で、ハクタンは呟いた。
「当たり前だ。」
ロックは掌を離し、一歩下がる。
「あんな鎖つけて歩くほうがどうかしてる。」
誠実の火は、用が済んだとばかりに、自然とロックの胸の奥へ戻っていく。
彼自身の体力も、少しだけ削られていたが、それを顔には出さない。
「はい、終わり。」
肩すかしを食らうほど、あっけなく言う。
「……すご……」
ハクタンは胸元に触れる。
皮膚の下にあったひりつきがない。
呼吸のたびに絡みついていた見えない紐もない。
何もない。
ただ、自分の心臓の鼓動だけが、ちゃんと自分のものとして響いている。
「ただの作業だ。」
ロックは淡々と言った。
「ここからが本番だろ。」
「……本番……?」
「お前は今、誰の命令も受けちゃいねぇ。」
ロックはハクタンをまっすぐ見た。
「“どう生きるか”全部、自分で決める。
誰のせいにもできねぇ。
それが、本当の自由だ。」
ハクタンの黄金の瞳が、かすかに揺れる。
自由――その言葉は、きれいだ。
だけど、彼女にとっては同時に、“恐ろしい”という意味も含んでいた。
「……どうしたいか……分からない……」
素直な言葉だった。
「分からなくていい。」
ロックは即答する。
「分かってるやつのほうが珍しい。
選ぶのは、急ぐもんじゃねぇ。
ただ、“選べる”ってことだけは、忘れんな。」
そう言って、ロックは歩き出した。
ハクタンは、その背中を追う。
胸の奥の軽さに、まだ足がついていかない。
夜の砂通りを歩く。
奴隷たちが、交代の時間なのか、列を作ってどこかへ運ばれていくのが見えた。
彼らの顔は、疲労でくしゃくしゃだ。
けれど、その目は、不思議なくらい静かだった。
笑っている者さえいる。
冗談めいた言葉を交わし、肩を小突き合っている。
その笑い声を聞きながら、ハクタンの口から、ぽつりと言葉が零れた。
「ロック……。
あの人たち……笑ってるのに……苦しそうに見える……」
「そりゃそうだ。」
ロックは、視線を奴隷たちから外さずに言う。
「考えないほうが楽だからな。」
「……考えなくても……生きていけるの……?」
「生きるだけならな。」
ロックは路地の暗がりに目を向けた。
そこには、うずくまる老人がいた。
何かを待っているのか、何かを諦めているのか、自分でも分かっていない顔。
「でも、自分がどう思ってるかも分からずに死ぬのは……」
ロックは少しだけ声を落とした。
「本当に“生きてた”って言えんのかね。」
落ち着いた言葉。
だけど、その芯にあるものは、ハクタンの目には別の色で見えていた。
青。
深く、冷たく、けれどどこか痛みを抱えた青。
(……この青……なんだろ……)
ロックは悲しそうには見えない。
怒っているようでもない。
だけど、胸の奥で何かを飲み込んだ人の色だった。
「ロック……」
ハクタンが名前を呼ぶと、ロックは立ち止まる。
「観測するぞ。」
「……観測?」
「この国の空気がどう流れてるか。
どこが腐ってるか。
どう燃やすべきか。」
ロックは、周囲の人々を一人ひとり見る。
物乞い。主人。奴隷。兵士。店主。子ども。
ハクタンには、その視線の先にいる人たちの“色”が、はっきりと見えていた。
「……灰色……」
言葉がぽろりとこぼれる。
「どの人も……似てる……」
ロックが、ちらりとこちらを見る。
「灰色? なにがだ。」
「え……あ……」
言うか言わないか、迷いが喉の奥で絡まる。
けれど、さっき刻印を焼かれたときの温かさを思い出し、ハクタンは少しだけ勇気を押し出した。
「その……“色”が……見えるの……わたし……」
「色?」
ロックの眉が、わずかに寄る。
ハクタンは胸元をぎゅっと握りしめ、小さく息を吸い直した。
「人の……“感情の色”。
悲しいときは、水みたいな青で……
怒ってるときは赤で……
空っぽのときは……灰色で……」
視線を、灰色の人々へ向ける。
「だから……あの人たち……みんな……“空っぽ”の色……」
沈黙。
ロックはしばらく黙って歩きながら、その言葉を反芻しているようだった。
やがて、短く息を吐く。
「……なるほどな。」
その声は、どこか納得を含んでいた。
「それ、便利だ。」
「べんり……?」
「ちょうど“観測”に使える。」
ロックは、街の灯りを見上げる。
「この国のどこが腐ってるか探るのに、
“心の色”が見えるなら、話が早い。」
ハクタンは、ほっと胸を撫で下ろした。
「……怒らない……?」
「なんで怒る。」
ロックは首をかしげる。
「役に立つ能力なら歓迎だろ。
俺は、役に立たねぇ嘘のほうが嫌いだ。」
その言い方が妙にロックらしくて、ハクタンは思わず口元を緩めた。
ロックは再び歩き出す。
「色が灰色ってことは……
生きてるようで、生きてねぇって意味だな。」
「……うん。
本当に……そう見える……」
ハクタンも小さく頷き、彼の隣に並んだ。
しばらく歩いたところで、ロックがふと振り返る。
「ハクタン。」
「なに……?」
「“色が見える”以外に……何ができる?」
ざっくりとした問い。
ハクタンは、少しだけ肩をすくめた。
「えっと……
魔法で、人を治したり……
あとは……結界を張ったり……
小さいのなら、火も……水も……少しだけ……」
言えば言うほど、声が小さくなる。
奴隷でいた時間が長すぎて、「自分のできること」を誇る感覚を忘れていた。
ロックは短く息を吐いた。
「お前からすりゃ普通だろうが、
誰でもできるもんじゃねぇよ。」
「でも……刻印があったときは……」
ハクタンは視線を落とし、かすれた声で続けた。
「使っても……意味、なかった……。
命令があれば……手、勝手に動いちゃうし……
治したい人、治せなくても……止められなくて……」
それは、小さな告白だった。
諦めと無力感に塗りつぶされていた過去の断片。
「だから焼いたんだよ。」
ロックは立ち止まり、片足を壁に預けるようにして言った。
「命令で縛られてるうちは、お前の力は“道具”だ。
今は違う。
これからは全部、お前の“選択”だ。」
ハクタンの胸が、ふっと熱くなる。
誠実の火とは違う。
もっと弱く、もっと柔らかい、けれど確かな熱。
「……ロックの色、きれい……」
思わず出た言葉だった。
「なんだそれは。」
ロックが眉をひそめる。
「えっと……さっきより……赤くて……
あたたかい……」
「見る必要がねぇときまで分析すんな。」
そっぽを向く。
その耳まで見えたら、少し赤くなっていたかもしれない。
ハクタンは、小さく笑った。
ふたりで歩く音が、石畳に吸い込まれていく。
さっきまで奴隷市場にいたときには考えられなかったほど、足取りが軽い。
ロックは、ふと歩調を緩めた。
「……勘違いするなよ。」
「え……?」
ロックは、自分の掌を見下ろす。
そこには、剣も、銃も、派手な魔法の輪もない。
ただ、見えない火が、一筋だけ走っている。
言葉を選ぶように、一拍置いた。
「俺は、悪だ。」
淡々とした宣言。
「誰かの立場で言えば、俺は全部ぶっ壊す側だ。
国家も、秩序も、安寧も。
それなのに……」
苦く笑う。
「俺は戦えねぇ。
殴られたら普通に倒れる。
剣なんか握ったら、自分の指を落とす。」
「……え?」
ハクタンが目を丸くする。
「だから言ってんだよ。」
ロックは、少しだけ肩をすくめた。
「俺は“戦って勝つタイプ”じゃない。
観測して、見抜いて、燃やすだけの――
最弱の悪だ。
だから、お前に守ってもらわなきゃいけない」
自己卑下でも、開き直りでもない。
自分という存在を、ただ誠実に並べただけの声だった。
ハクタンは、しばらく黙ってロックを見つめ、それから小さく言った。
「……ロックは、こわい。」
「そうか。」
即答。
「でも……嫌じゃない。」
そのひと言は、ロックの予想から少しだけ外れていた。
「……なら、勝手にしてろ。」
そっけない。
でも、ハクタンの目には、その言葉の中に、一瞬だけ柔らかい色が灯ったのが見えていた。
ロックは前を向き直る。
「とりあえず、次は情報だ。」
「じょうほう……?」
「この国がどう回ってるか。
どう壊れてるか。
どう燃えるか……全部見ないと話にならねぇ。」
ちょうどそのときだった。
風に乗って、街の噂話が耳に届いた。
『――街外れの廃屋に、まだ生き残りの奴隷がひとり閉じ込められてるらしい』
『刻印があっても言うことを聞かない“反抗奴隷”だってよ』
『あの廃屋、誰も近寄らねぇ。見張りが気味悪いくらい無表情で――』
ロックの足が止まった。
「……反抗奴隷、ねぇ。」
その響きに、誠実の火がかすかに反応する。
命令に逆らう奴隷。
刻印があっても折れない奴隷。
この国の“安寧”から見れば、最悪のバグだ。
ハクタンの耳がぴくりと動く。
「ロック……行くの……?」
「材料は……一個見つかった。」
ロックは、街外れの方角へ視線を向けた。
その色は、“白く燃える前の赤”から、少しだけ濃くなっている。
「観測に行くぞ。」
短く、それだけ。
「この国の“壊れ方”を見に。」
ハクタンは、胸の奥にまだ残る新しい空洞を抱えたまま、静かに頷いた。
「……うん。」
夜の砂通りを、二人分の足音が進んでいく。
首輪を失った白い虎の少女と、
世界を燃やしたいと笑う最弱の悪。
その背中が向かう先には、この国の歪みが、濃く、暗く、積もり上がっていた
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