Enbersー悪として不誠実を燃やす男は、世界の炎上を本物にする
@patamonsan
第1話 白い虎の少女と、燃やす男
第1話 白い虎の少女と、燃やす男
砂の風が吹くたびに、世界は少しずつ薄汚れていくように見えた。
舞い上がる砂粒は、夕暮れの光を鈍く反射しながら、町全体に薄い膜のように降り積もっていく。
まるで、この国全体が腐りきった証拠を、粒にしてばら撒いているみたいに。
奴隷市場。
そう呼ばれているその場所は、実態としては「考えることをやめた人間たちの墓場」だった。
並べられた鉄の檻。
互い違いに積まれた木箱。
地面に直接、鎖で繋がれたまま座らされている者もいる。
錆びついた鎖が、風に揺れてかすかに鳴る。
その一つひとつに、手首と足首が通されていた。
値札代わりの札だけが、そこにいる者たちを“人”として扱っているふりをしている。
年齢、性別、簡単な能力。そう書かれた粗末な板切れが、首からぶら下がっているだけだ。
その光景を見下ろす者たちの顔は、驚くほど似通っていた。
退屈そうで、どこか空っぽで、
責任という概念から上手に目を逸らしている顔。
誰も、ここで売られている人間を「人」だとは思っていない。
しかしそれを口に出すほどの自覚もない。
ただ、“楽”であることだけを、ぼんやりと享受している。
――くそみてぇな景色だな。
黒いマントを羽織った男が、砂を踏みしめながらゆっくりと歩いていた。
ボロ布のようなマントは、ところどころ焦げた跡がある。
黒髪は無造作に伸び、額にかかる影が目元を隠していた。
自分がどこから来たのか。
なぜここにいるのか。
過去に何をしてきたのか。
何一つ、思い出せない。
思い出そうとすると、頭の奥でざらついた何かが擦れるような不快感だけが残る。
だから、男は考えるのをやめていた。
けれど、一つだけはっきりしていることがある。
この世界は、ひどく気に食わない。
そして俺は、それを燃やしたいと強く思っている。
幸いにも、その方法はあった。
胸の奥で、赤い火がゆっくりと揺れている。
誠実の火。
燃えるべき相手は燃え、燃えない相手は燃えない。
原理はわからないし、なぜこんなものを持っているのかも知らない。
火に意志があるわけでもない。
だが、この火は、嘘と欺瞞に妙に敏感だった。
「見たくないものから目を逸らす」
「誰かのせいにして、自分だけ楽をする」
「優しさのふりをして、責任だけは取らない」
そういった類のものを見ると、火は勝手に熱を増す。
その仕組みも理由も、全部どうでもよかった。
燃やしたい、という感情がある。
燃やす手段がある。
それだけで十分だ。
理由や正当性なんてものは、後からいくらでも捏ね繰り回せる。
感情と選択のほうが先だ。
この世界は、その順番を間違えた連中であふれている。
男――彼自身はまだ、名前を持たない――は、奴隷市場を見渡した。
この国は「安寧」を掲げている、と聞いた。
奴隷さえいれば、自分は働かなくていい。
命令さえしていれば、責任を考えなくていい。
そうやって、考えること、選ぶこと、背負うことを放棄した人間たちの集積地。
檻の中で痩せ細った奴隷が咳き込んでも、誰も顔を向けない。
子どもがか細くうめき声をあげても、誰も足を止めない。
一部始終を見ていながら、誰も「それはおかしい」と口にしない。
住人たちは皆、見て見ぬふりをすることに慣れきっていた。
――責任から逃げることを“平和”と呼ぶなら、ここはきっと天国だろうな。
男は内心で舌打ちする。
砂の匂いに、汗と血と、安物の香油のにおいが混ざり合う。
そのすべてが、どこか薄く、ぼやけている。
そんな停滞した風景の中で、ひとつだけ異物が混ざっていた。
檻でも、鎖でもない。
市場の少し開けた場所。
売り物として目立つように、木箱の上に腰掛けさせられた、ひとりの少女。
白い髪。
陽の光を受けてぼんやりと輝く、雪のような色。
白い虎の耳。
ピンと立っているはずの耳は、力をなくして横に寝ている。
腰のあたりで、白い尻尾がだらりと垂れていた。
砂がときどき尾の先を汚し、尾が動くたびに小さな砂煙が舞う。
肌には、薄いあざや擦り傷が点々と残っている。
殴られた跡、蹴られた跡、引きずられた跡。
新しいものと古いものが、ひとつの身体の上に折り重なっていた。
首元には、鉄の首輪。
その内側に、赤黒く刻まれた魔法刻印が覗いている。
刻印は鈍く光り、少女の体から力を奪い続けていた。
魔力も、筋力も、意志さえも。
そして――黄金の瞳。
その瞳は、何も映していないように見えた。
諦めとも違う。ただ、感情の置き場を失って空っぽになっているような目だ。
男は立ち止まり、少女を見た。
……いや、正確には「胸の火」が、少女を観測した。
(静かだな。)
砂埃まみれの空気の中で、その少女の周りだけ、妙に澄んでいるように感じる。
(周りの汚れた空気の中で、こいつだけ妙に真っ白だ。)
感情は擦り減っている。
それでも、その奥に、かすかな“芯”のようなものが残っている。
燃え残りの白い炭。
火を入れれば、まだ灯りそうな、そんな気配。
男が一歩踏み出そうとした、そのときだった。
「おい、立てって言ってんだろうが!」
けたたましい怒鳴り声が、空気を乱暴に叩き割った。
少女の肩を、何度も小突いている男がいた。
脂ぎった顔。上等そうな服。指にはいくつもの指輪。典型的な奴隷主人だ。
腹は不自然に突き出ているのに、眼だけは妙に細く、いつも誰かを値踏みしている。
「ほら、笑え。牙なんか見せるな。お前は“商品”なんだよ。
言われた通りにしてりゃそれでいいんだ。
従うほうが楽なんだぞ? 逆らわないほうが“正しい”んだ。」
――楽と“正しさ”で縛る、安っぽい声。
その瞬間、誠実の火がぼう、と熱を増した。
支配。怠惰。責任放棄。
それらを「楽」と「正しさ」という言葉で飾り立てる欺瞞。
この国の本質が、その男の口から安っぽく漏れ出している。
誠実の火は、迷わない。
こいつは“燃える側”だ。
男は、ため息を吐くような声音で、ぽつりとつぶやいた。
「……燃える類いだな。」
「は? 何だテメ――」
奴隷主人が男のほうへ顔を向けた、その次の瞬間。
赤い火が、男の胸から静かにあふれ出した。
炎は一瞬で奴隷主人を包み込む。
炎といっても、外から見える火の形をしているわけではない。
空気が歪み、熱が揺らぎ、男の周囲だけ色が変わったように感じられた――次の瞬間には、奴隷主人の体が赤い何かに呑まれていた。
体の表面から内側へ。
嘘と他責と欺瞞を、燃料ごと焼き尽くすように火が広がっていく。
悲鳴があがる……はずだった。
だが声は途中で途切れ、喉の奥で詰まったまま消える。
焦げた臭いだけが残り、黒く崩れた塊が、木箱の隣に崩れ落ちた。
風が吹くたびに、その塊は少しずつ崩れていく。
それでも、その場にいた者たちは――驚かなかった。
奴隷たちは、ただ俯く。
主人たちは、ただ視線を逸らす。
恐怖はある。
だが、その恐怖を口に出すことよりも、関わらないことを選ぶほうが早い。
誰も駆け寄らない。
誰も止めようとしない。
誰も「何が起きた」と口にしない。
彼らの本音はひとつだ。
「自分に火の粉が降りかかってこなければ、それでいい。」
それが、この国の“安寧”だった。
男は、焼け落ちた主人の残骸に視線すら向けず、
白虎の少女の前に歩み寄った。
少女は目を見開いていた。
驚き、というには薄い。
恐怖と、理解の遅れと、信じたくない現実が、ばらばらに浮いているような顔。
喉が乾ききっていて、声が出ない。
それでも、時間をかけて、かすれた声を搾り出した。
「……あなた、いま……」
唇が震える。
「燃やした……の?」
男はあっさりと頷いた。
「燃える奴だった。」
説明は、それだけ。
少女の肩が小さく震えた。
怖いのか、安堵なのか、自分でもわかっていない震え。
耳がぴくりと動き、尻尾がかすかに揺れる。
刻印が、彼女の中の力を押さえつけながら、その震えだけは止められなかった。
男は少女をじっと見た。
胸の火は、先ほどからずっと穏やかなまま。
――こいつは、燃えない。
不誠実から遠い。
ただ、選び方を知らないだけだ。
だから男は、淡々と問いかけた。
「お前、名前は?」
少女は少しだけ口を開け、しばらく黙り込んだ。
喉が渇いている。
声を出すことに慣れていない。
言葉が出るまでに、何度か息を飲み直す。
「……呼ばれたこと、あまり……ない。
“白”とか、“獣”とか……そんなの、ばかり。」
自分を説明する言葉を持たない人間の、
どうしようもない心細さが、その声には滲んでいた。
少女の中には、本当はもっとたくさんの言葉があった。
「寒い」「痛い」「怖い」「やめてほしい」「ここにいたくない」。
だが、それを口にしたところで何も変わらないことを、この国で学んでしまっていた。
だから、いつしか言葉を閉じ込めることを覚えた。
男は鼻を鳴らした。
「そうか。」
それだけ言うと、何かを考えるように一瞬だけ黙り込む。
誠実の火が、少女を静かに照らす。
白い髪、白い耳、黄金の瞳。
その全部に、燃え残った炭のような何かが見えた。
周囲の空気は濁っているのに、彼女の周りだけ、まだ色を失い切っていない。
男は、ゆっくりと言葉を続ける。
「名前ぐらいは、持っとけ。」
少女の耳が、ぴくりと揺れた。
「……名前……?」
「そうだ。これからどうするかは知らねぇが。
“何者でもないまま”ってのは、見てて気持ち悪い。」
少女は、理解が追いつかない顔をしていた。
“何者でもない”ことが、ここでは当たり前だったからだ。
奴隷は、名前を持たないほうが扱いやすい。
名前を呼ぶと、そこに「一人の人間」が発生する。
罪悪感が面倒になる。
だから、彼らの名は奪われていった。
「……でも、“白”って呼ばれると……」
少女は、喉を震わせながら、絞り出すように続ける。
「……あなたの、その火で……
いつか全部、燃えてしまいそうで……」
男の目が、わずかに見開かれた。
少女の黄金の瞳には、赤が滲んで見えた。
火そのものではない。
火に照らされて、自分がどこにいるかを見ようとしている眼だった。
ハクタンにとっては恐怖以外の何ものでもなかったが、
男の内心は少し違った。
――こいつ、自分のことをちゃんと“感じて”やがる。
恐怖だけじゃない。
燃え尽きることへの直感。
そのくせ、それをちゃんと「怖い」と認識できる感覚。
男は小さく笑った。
「なら、“白”じゃねぇな。」
少女がきょとんとする。
「……え?」
「“白”じゃなくて――」
男は少女を、もう一度だけ観測した。
擦り切れた感情。
諦めに似た静けさ。
その底に、まだ消え切らない“火種”のような意志。
砂の風の中で、それだけがかすかに温かかった。
「“ハクタン”だ。」
少女の瞳が、わずかに揺れる。
「……ハク、タン……?」
「白い炭。
燃えるか燃えねぇかは、お前しだいだ。
でも炭ってのは、火が入ればよく燃える。」
馬鹿にしているような、していないような調子。
それでも、その言葉は一度も、少女を「物」として扱っていない。
少女は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
“白い獣”と呼ばれてきた頃には、一度も覚えなかった熱だ。
「……ハクタン……」
少女は、ゆっくりとその音を繰り返す。
舌の上で転がしてみる。
自分のものになるかどうか、確かめるように。
「……うん。
気に入った……。
ハクタン……それ、いい……名前。」
声はまだ弱々しい。
けれど、その言葉を口にした瞬間、胸の奥の何かがかすかに“カチリ”と鳴った気がした。
男は、少しだけ肩の力を抜いた。
「気に入らねぇなら、あとで勝手に変えろ。
“自分で選べる”ってのは、案外悪くねぇ。」
そこで、ハクタンはおそるおそる尋ねた。
「……あなたは?
あなたの名前は……?」
男は、少しだけ困ったように、少しだけうんざりしたように肩を揺らした。
「……名前なんてねぇよ。」
「え……?」
「呼ばれた覚えがない。
そもそも、自分をどう呼べばいいのかも知らねぇ。」
自嘲が混じった声だった。
“何者でもないまま”を気持ち悪いと言っておきながら、
自分自身こそが“何者でもない”。
ハクタンは、そっと一歩近づいた。
鎖がかすかに鳴る。
「……なら、つければいい。」
囁くような声だった。
「あなたが、あなた自身を、選ぶための名前を。」
男は少しだけ目を見開く。
胸の奥の火が、微かに揺れた。
「……選ぶ、ねぇ。」
この国に来てから、誰かが自分の「選択」を促してくるのは初めてだった。
燃やす相手は、火が勝手に教えてくれる。
燃やすかどうかも、自分の中ではもう決まり切っている。
だが、「自分をどう呼ぶか」は――今まで考えたことがなかった。
しばし沈黙。
砂の風が、焼け残った灰をさらっていく。
やがて男は、ぽつりと言った。
「……ロック。」
「ロック……?」
「燃えるときの音だ。
火を入れたとき、何かが変わる音。」
薪に火が入るときの、乾いた破裂音。
それが何度も頭の中で反響する。
自分が何かを燃やすたび、どこかで同じ音が鳴っていたような気がした。
ハクタンは、その名を口の中で転がすように繰り返した。
「ロック……。
あなたに、似合う。」
名と男の姿が、ゆっくりと結びついていく。
黒いマント。赤い火。世界を燃やしたいと笑う目。
男――ロックは、照れ隠しのように鼻で笑い、マントを翻した。
「――で、ハクタン。」
歩き出しながら、軽く片手を上げる。
「選べ。」
ハクタンは、一瞬意味が分からず目を瞬かせた。
「……え……?」
「ここに残るか。
どこかに逃げるか。
それとも――俺についてくるか。」
さっきまでの奴隷主人の言葉とは、似ているようで決定的に違う。
従え、とも、正しいとも、楽だとも言わない。
ただ「選べ」と突きつけてくるだけ。
胸の奥で、小さな赤い火が揺れたような気がした。
(自分の“選択”で決めるなんて……)
その怖さに膝がすくむ。
けれど――
焼かれた奴隷主人の灰を見て、ハクタンは小さく息を吸った。
あの男が消えた瞬間、自分の胸に広がった感情はなんだったか。
恐怖だけじゃない。
少しだけ、軽くなった。
息が、ほんの少しだけ吸いやすくなった。
その事実だけは、誤魔化せない。
「……わたし、は……」
ハクタンは、震える膝を叱りつけるようにして立ち上がった。
尻尾が小さく震えている。
それでも、黄金の瞳だけは、ロックの背中をまっすぐに見つめていた。
「わたしは――」
喉が焼けるように熱い。
それでも、その言葉を外に出さなければ、ここで何も変わらないと分かっていた。
「あなたと、行く。」
ロックは振り返らなかった。
ただ、少しだけ口角を上げたのを、ハクタンだけが見逃さなかった。
「そうか。」
短く、それだけ。
ロックは奴隷市場を一瞥する。
誰もこちらを見ようとしない。
誰も何も言わない。
何も変わっていない。
変わろうとしているのは――今、立ち上がったばかりの、白い虎の少女だけだ。
「じゃあ、まずは――」
ロックは、ちらりとハクタンの首元の刻印に視線を落とした。
「その首輪と、面倒な決まりごとからだな。」
ハクタンは、自分の首に触れる。
冷たい金属の感触に、身体がびくりと震えた。
(……本当に、ここから、出られるのかな……)
不安と、かすかな期待。
胸の奥で、小さな火がちろちろと揺れた。
白い虎の少女と、燃やす男。
二人の物語は、こうして始まった。
この小さな選択と、ささやかな名付けが、
いずれこの奴隷国家そのものを燃やす火種になることなど、
まだ誰も知らないままに。
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