02.空高くにある月のお姫様
雨水渡は帰宅すると、そのまま自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。
そうしてようやく落ち着きを取り戻し、頬が熱くなる。
(あれは……セクハラだったんじゃないか……?)
渡が初めて触れた女の子の唇は柔らかく小さく、驚きのあまりすぐに離れたものの、本当はもう少し触れていたかった。
離れたあとの凪の顔はとても綺麗で、今も渡の目に焼き付いて離れない。
つないだ手は小さく華奢で、見上げた横顔はどこか凜々しくて愛らしかった。
凪曰く、あれはデートだったらしい。
そんなの、渡の人生で初めてのことで、本当にあれで良かったのかもわからない。
少なくとも楽しそうには見えたけれど、本当は嫌がっていたらどうしよう。そうだとしたら、あれはただのセクハラでしかなくて、自分はとんだ勘違い野郎だ……いや、そんなはずはない――。
考えれば考えるほど分からなくなり、渡は目を閉じて思考を手放した。
渡は枕に顔を埋めてしばらく唸り、やがてゆっくりと身を起こした。
「……風呂、入ろう」
トボトボと風呂に向かうと、ちょうど妹の雫が脱衣所から出てきた。
「渡、もしかして今からお風呂?」
「うん」
「ごめん、お風呂の栓抜いちゃった」
「……いいよ」
「どしたの、元気ないね。冷凍庫のアイス食べていいよ」
「それ、元から俺用に取ってあったやつじゃん」
あはあはと笑う妹を軽く追い払い、渡は脱衣所に入った。
シャワーだけで軽く済ませてベッドに戻ると、夕飯を食べていないことに気付いたが、まったく食欲がわかなかった。
渡はその晩ほとんど眠れず、小柄な月の少女のことを延々と考え続けていた。
数日後、目の下に隈を作った渡は、リビングでニュースを眺めていた。
ダイニングでは父と母が夕飯を食べている。
妹は先に食事を終えて自室に戻り、兄は仕事でしばらく不在で、手伝いの
ニュースでは、月の日本領大使が地球から月へ帰任したと報じられていた。
画面には、家族と別れを惜しむ姿が映し出されていた。
大使は妻と長女を地球に残し、長男と次女が待つ月へ戻ると説明されたところで、ソファに沈んでいた渡は飛び起きた。
映し出された長女の姿は、まさに渡が思い続けていた少女そのものだった。
「え、あ、この子……!?」
「どうした、渡」
父の
渡は思わず目を白黒させ、譲を振り返った。
「父さん、この子……
「そのはずだが」
「えっ、でも
「明月は
「そうなんだ……」
とはいえ、雨水家の統領は譲の姉で、譲はその補佐として分家の取りまとめを担う副官の立場にある。
そのうえ渡には兄がいて、普段は不在だが「家の役目」はいずれ兄が担うことになるから、渡自身には良家の自覚が薄い。譲の手伝いをすることはあっても、さほど家の格を気にしたこともない。
もっとも、渡が意識していないだけで、雨水家は高官の家系だ。だから、頭領補佐である譲が月詠の内情を把握しているのは当然で……。
つまり父の言葉は本当なのだろうと、渡はすぐに判断した。
「本当に……」
「で? 月詠のお嬢様に何やらかしたんだお前は」
「な、なんもしてねえよ!」
咄嗟に言い返したものの、渡は(何にもってことはないよな……)と胸の内で思い、黙っていた。
口付けだけとはいえ、月詠のお嬢様に手を出したと知られれば、良くて勘当、最悪雨水家が取り潰されかねない。
月詠の統領が娘を溺愛し、家族を何より大切にしていることは、たった今ニュースが伝えていたとおりだ。
「やらかしたなら早めに言えよ」
「何で俺がやらかす前提なんだよ……あ、でも殴られかかってたよ、月詠のお嬢様」
「えっ」
渡が父の意識をそらそうと、思い出したことを口にすると、譲の顔色が悪くなった。
母はスッと黙って席を立つ。
蛙前が素早く母の食器を下げ、台所へと引っ込む。
譲も立ち上がり、渡の隣に腰を下ろした。
「詳しく」
「え、えっと、図書館で……」
渡は、図書館で彼女を庇ったことを説明した。
それから水族館に連れて行ったことと、海で月を見せてもらったことも。
もちろんキスしたことは伏せて。
渡が話し終えると、譲は渋い顔で黙りこんだ。
「お前、俺の手に負えない話をするなよ」
「聞いておいて……」
「しかもそれ、今日の話じゃないんだろう? どうしたものか」
「そんなに大事?」
おそるおそる聞くと、譲は重々しく頷いた。
「ああ、未遂とはいえ月詠のお嬢様が危害を加えられそうになった。……だから、一般庶民と同じように学校に通わせるのは反対したのに」
譲はブツブツ言いながらスマホを取り出した。
渡が覗き込むと、雨水家統領である伯母の名前が見えたので、退散することにした。
間違いなく面倒ごとになっているから。
「渡」
「……はい」
リビングを出る直前、鋭い声で呼び止められた。
渋々振り返ると、譲はもっと渋い顔で渡を見ている。
「今後、何かあったら、当日のうちに言うように」
「……わかったよ」
今度こそリビングを出て、渡は自室に戻った。
明かりもつけずにベッドに身を投げ出し、ぼんやりと天井を見上げた。
どうやら、セクハラの前に身の程知らずだったらしいと渡はぼんやり思った。
彼が身を挺して庇い、初めてキスした女の子は、文字通りの天上人だった。
「月詠って」
日本人の頂点に立ち、天照らす天皇家。その分家が月の日本領を治める月詠家。
その長子である凪は、いずれ月を象徴する人物となる。
……天照、晴原に次ぐ雨水家とはいえ、分家の次男坊に過ぎない渡の手の届く人物ではない。
また会いたいとか、連絡先を聞けたらとか、あわよくば付き合えたらだなんて、とんだ身の程知らずだった。
「あー……マジかよ」
渡は、思わず泣きそうになった。
唇に触れた柔らかさも、渡を見上げて嬉しそうに細められる赤みがかった瞳も、はしゃいで渡を引いた華奢な指先も。
何一つとして忘れられるわけがないのに、全部全部、渡の手の届くものではなかったのだ。
ふと、渡は凪にクラゲ柄のスニーカーと靴下を買ったことを思い出した。月詠のお嬢様にあんなものを履かせて良かったのか、渡は愕然とする。
先程テレビで見た凪は、人形のように美しく、優雅に微笑んで月詠氏を見送っていた。
ちゃんと見ていなかったけれど、それにふさわしい服装をしていたのだろう。
あの靴下とスニーカーを凪はどうしたのだろうか。
もう捨ててしまったかもしれない。
それならそれでいいと渡は思う。
端から釣り合う相手ではないのだから、夢を見たって仕方ない。
むしろ、夢を見せてくれたことに感謝した方がいいのかもしれない。
渡は寝転がったまま手を伸ばし、カーテンを開けた。
夜空には薄く雲がかかっていて、月も星も何も見えない。
いつもどおりだと渡は息を吐き、カーテンを閉めた。
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