第2話 ―悪夢のようだった―

「……っ!」


焼けつくような身体の痛みを振り払うようにして、天地あまちカレンは飛び起きた。


喉がひきつり、息がうまく吸えない。

目を開けた瞬間の世界はひどく遠く見え、現実か夢かの境目が曖昧あいまいだった。

耳に届くはずの音が消え、胸の鼓動と血の流れる音だけがやけに大きく響いている気がする。


反射的に自分の手を見下ろした。


左腕──脇の下あたりまでは黒い鱗が確かに存在しているが、右手は弾力のある人肌。

手の背景には茶色の使い古した革製のソファが見える。


見慣れた 天井。見慣れた壁。見慣れた家具。

そこに広がる日常を見て、やっとのこと悪い夢から覚めたのだと理解した。


ローテーブルの上で電子時計の赤い数字が、感情を持たないまま淡々と切り替わっていた。


二〇五〇年 六月 〇八三六───。


昨夜さくやはほとんど眠れなかった。


何度も目を閉じては開き、結局ベッドに戻ることもできず、

ソファでテレビをつけっぱなしにしてぼーっと眺めていた記憶がある。


気づけばそのまま意識が落ちていたらしい。


そんな質の低い睡眠を取ったせいであんな夢を見たのかもしれない。


リモコンを手に取ってチャンネルを切り替えると、画面には朝のニュース番組が映し出された。


『──次の話題です。今日で発生から七年が経過しました、

 【国際線こくさいせんターミナルバス突発感染事件とっぱつかんせんじけん】について、現場となった国際空港の近くでは被害者を追悼ついとうする黙禱もくとうが行われる予定です』


チャンネルを変えようとしていたカレンの指が止まる。


『本日はその特集として、感染症医学を専門とするウイルス研究医の藤堂ふじどう先生をお招きしています』


『よろしくお願いいたします』


画面には落ち着いた口調の女性キャスターと、少し小太りの男性専門家が並んで映っている。


カメラがキャスターへ寄り、淡々とした声で解説が続いた。


『二〇四三年に発生したこの事件は、死者数こそ少なかったものの、四十二人が被害に遭いました。擬人化ウイルスゾア・ピーウイルス流行後、初の大規模感染テロとして、国内外に大きな衝撃を与えました』


画面が切り替わり、当時の映像が流れる。


規制線。


防護服。


停車したままのバス。


胸の奥が、きしりときしんだ。

無意識に左腕を抱え込んだ。

左腕の鱗は触れても感覚がないほど鋼鉄で、冷たかった。


ZOA-PV-1ゾア・ピーウイルス・ワン──俗称ぞくしょう──擬人化ぎじんかウイルスは、二〇三〇年初頭に初めて感染が確認された新型ウイルスだ。


感染経路や発症の仕方は個人差が大きく、完全な制御は未だ困難とされているが、

咬傷こうしょう、血液接触、粘膜接触──発見当初は飛沫ひまつや吸引での感染が主だった。


感染症状はというと、感染者の身体をことを基本とした病原体──つまり遺伝子編集型のウイルスに近い特性を持ち、宿主の神経・内分泌ないぶんぴつ筋骨格系きんこっかくけいに対して形質けいしつの再編成を誘導する。


簡単に言うと、感染者はその形そのものを作り変え、ヒトはヒト以外の動物に──動物はヒトに近い形に──それぞれの身体をそれぞれの形に創り変えてしまう。


ヒトは獣に近づき、動物はヒトに近づく。


まさに俗称ぞくしょう通り──擬人的な存在へと近づき、変態へんたいしてしまう恐ろしいウイルスだ。


世界はウイルスへ対抗すると共に、新しく生まれた人種──獣人じゅうじんの社会的な受け入れを余儀なくされた。


獣人は社会の中で長く摩擦の中心に置かれることになった。

ワクチンの開発、人種差別、動物由来の獣人の制御、社会制度の構築。


医師とキャスターの言葉は冷静で、様々な事例を数字と事実だけを積み重ねていく。


それが、かえって現実味を帯びて胸に刺さった。


『【国際線ターミナルバス突発感染事件】の首謀者とされるのは、獣人至上主義思想を掲げる過激派組織――【キセイラ】だったとされています』


専門家の男性が頷き、続けて説明する。


『【キセイラ】は現在もウイルスの違法所持や強制感染を繰り返す凶悪な犯罪組織です。この事件をきっかけに日本では獣人関連法の整備が急速に進みました。

 直近で言えば、現在の【F.A.N.G.ファング】──失礼、【獣人保全安全局じゅうじんほぜんあんぜんきょく】の設立でしょうか。獣人に関する犯罪も増加傾向にあり、これも見過ごせない社会問題になってきています』


淡々とした── 感情をはいした説明が、過ぎ去った年月を物語っていた。


──七年。


もうそんなに経ってしまったのかと、胸の奥で何かが静かに沈んだ。


カレンは立ち上がり、クローゼットを開けた。


黒いスーツを取り出し、そでに腕を通す。


『現在、事件現場周辺には多くの花束が手向たむけられ、犠牲者をいたむ人々の姿が見られます。現場に居合わせた警官の決死の覚悟があり、被害規模は奇跡的な数値だと言われています。しかし、それでも四十二名の被害者とその家族親族……多くの人々の人生を大きく変えてしまった事件であります』


画面には静かに頭を下げる人々と、色とりどりの花が置かれた光景が生中継されていた。


──私もそろそろ出なきゃね。


スーツの上着を羽織った、その瞬間だった。


piriririri──。


仕事用のスマホの電子音が鳴った。

画面には着信の表示に、相手の名前が表示されていた。


分析支援室ぶんせきしえんしつ


小さく息を吐く。

何の用件かは、だいたいさっしがついていた。


覚悟を決めて通話を受ける。


「こちら獣人保全安全局F.A.N.G.の天地です」

『天地警部補けいぶほ。おはようございます。分析支援室のミエラです。非番中に失礼します』


声が、いつもより硬い。

カレンはそれだけで状況を理解した。


「何か問題が?」


『公共バス車内でトラブルが発生しています。乗客同士の揉め事から、人間由来の獣人が興奮状態に陥って車内で暴れているとの通報が入りました。猫科の形質けいしつで、二メートル弱の高身長化の傾向有り。攻撃性が高いと予想されます』


「フェロモン量や誘導感染ゆうどうかんせんの危険性は?」


『それが……』


ミエラが一拍置く。


『現場は緊張状態で、現地警察内に獣人警官がおらず、突入を躊躇ちゅうちょしています。第一班の夜咲よざき巡査じゅんさと、アヌビスさんが急行していますが……』


ミエラは躊躇ためらいながらも、丁寧に言葉を選んだ。


『指揮系統の問題で足止めされています。その影響で分析器や生体ドローンの使用も認められず……警部補の助力がないと……その……』


「はぁ……F.A.N.G.ファングの認知度もまだまだね……」


獣人案件では管轄かんかつや権限を巡って現場が混乱することは珍しくない。


だからこそ、階級を持つ人間の存在が必要になることも多い。

カレンはおちおち居眠りだってできないのが獣人事件の現状だ。


「分かりました。私が向かいます」


『……ありがとうございます』


「謝らないで。丁度外出する予定だったので」


『はい。よろしくお願いします』


通話を切ると、部屋が急に静かになった気がした。


ニュースはすでに別の話題へ移り、六月の陽気を伝えるお天気キャスターの穏やかな声が流れている。


時計の電子音だけが、ぽつりと空間に残った。


身支度を整えて部屋を出る前に、寝室の棚に置いた写真立てを手に取る。


制服姿の父──ナオヒロが、少し照れたように笑っている。


まるで、成長した娘を誇らしげに見ているようだった。


数秒だけ父の姿を眺め、そっと元の場所に戻す。


「行ってきます」


それだけを告げると襟元を正し、カレンは部屋を後にした。

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F.A.N.G. ― 獣人犯罪特務課 ― 黒猫ハヤト @kuronekohayato0

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