F.A.N.G. ― 獣人犯罪特務課 ―
黒猫ハヤト
第1話―失ったもの―
二〇四三年 六月 一四〇〇───。
国際線ターミナルの到着ロビーは、ガラス越しでも感じるほどの陽気漂う日だった。
電光掲示板の文字が絶えず書き換わり、キャリーケースの車輪が床を擦る乾いた音が途切れなく続いている。
その人混みの中で、
漆黒のロングヘアをゆるくまとめ、半袖の軽やかなトップスに、風をはらむ薄手のボトムス。色味は相変わらず黒で統一されているが、重さは削ぎ落とされ、初夏の空気がそのまま
黒ずくめな印象とは対照的に、彼女の顔だけは期待で明るく輝いていた。
──お土産、何かな。お父さん覚えてるかな?
そんな
父が海外出張に出ている間、家の中は不思議なほど静かだった。
警察官という仕事柄、行き先も期間も曖昧なままになることは珍しくない。
それでも今日は、きちんと「帰ってくる日」だった。
『帰ると決めた日は変わらない』
その約束だけは絶対に守るのが父 ──
到着ゲートのドアが開いた。
スーツ姿の男性。
旅行客のようなブロンドヘアの外国人女性。
楽しそうな笑顔に包まれた子連れの家族。
いろいろな顔が、いろいろな形で通り過ぎていく。
その列の中に、見慣れた人影を見つけた。
「おかえりなさい。お父さん」
黒いキャリーバッグを引いていた男が、歩みを止める。
四十代半ば。短く整えられた髪と、目元に刻まれた細かな
人混みの中でも埋もれない無駄のない立ち姿だが、疲労を隠しきれない空気をまとっていた。
それでも、カレンの声に気づいた瞬間、ナオヒロの肩の力がわずかに抜けた。
「ただいま。わざわざ来なくてもいいって言ったのに」
そう言いながらも、声音は少しだけ和らいだのを感じる。
「いいじゃん別に。私が来たかったんだし」
ナオヒロが持つキャリーバッグに手を伸ばしながら、寄り添うように横に並ぶ。
バッグを持つ父の手に触れる。
スーツの袖から覗く手の甲には、小さな傷跡がいくつかあった。
現場帰りのいつもの手だ。
「……母さんに内緒で、帰りにいい物でも食いたいんだろ?」
「……ふーん? べつにー?」
視線がぶつかり、同時にふっと笑いがこぼれた。
ロビーのざわめきが、少し遠ざかって聞こえる。
迷ったときも、怖かったときも、いつだって前に立ってくれた人。
カレンにとって、父はずっと変わらない正義の味方だった。
二人は肩を並べて、国際線ターミナルのバス乗り場へと歩き出した。
ガラス張りの通路を、人の波に乗って歩いていく。
「飛行機、揺れなかった?」
「今回は大丈夫だったな」
旅行帰りのような、他愛もない会話だけが続く。
仕事の話はしない。
カレンとナオヒロの間には、 そういう暗黙の決まりがあった。
飛行機から降り立った人の列に交じりながら歩き続けると、
国際ターミナル前のバス停へと着いた。
外に出た途端、生暖かい風が吹いた。
空港内がもう既に夏仕様の空調だったのか、温度差で少しだけ暑く感じてしまった。
ナオヒロも初夏の風を感じたのか、少し気だるげな表情をしていた。
「もうすぐ七月か……早いもんだな」
「すーぐ夏休みだよ。今年こそ海に連れてってね?」
「どうだかなぁ。バーベキューとかどうだ?」
「めっちゃいいじゃん! 絶対だよ!」
他愛のない話をしながら、乗車の列に並ぶ。
バス乗り場は、スーツケースを抱えた旅行客で込み合っていた。
電光掲示板に行き先が表示されると同時に列が動き出し、二人もそれに続く。
「はっは。お前は宿題で手一杯なんじゃないか?」
「
「お前な……」
ほどなくして到着したバスに乗り込むと、車内はすでに涼し気な空調がされており、冷房と人いきれと、かすかな消毒液の匂いが混ざっていた。
二人は車両の中ほど──バスを正面に見て右側──運転席側へ並んで座った。
「ねぇ、帰りにさ、駅前のハンバーグ屋さん寄らない? 新メニュー出たって──」
カレンが身を乗り出しながら話しかけると、父は
その視線は、今しがた乗車口から乗り込んできたひとりの男に向けられていた。
そろそろ季節外れな厚手のロングコートに身を包み、大きなキャリーケースを引いている男は、
視線がゆらゆらと泳ぎ、空席と人の顔とをランダムに眺めていた。
男はほどなくして、二人から見て少し前の左側の席に腰を下ろした。
キャリーケースは通路側に、少し無理矢理押し込むように立てかけながら、
通路を通り過ぎる乗客を品定めでもするように目で追っていた。
「……お父さん?」
カレンは小声で呼んだ。
父の横顔が、固くなっている。
さっきまでの穏やかな空気とは、微妙に違う温度感があった。
「聞いてる?」
「……ああ。悪い。何でもない」
心配そうに父の顔を覗き込むと、ばつが悪そうにしてぎこちなく笑った。
その後すぐにバスのドアが閉まった。
静かな振動とともに、バスが目的地へと動き出す。
ターミナルを離れていくにつれ、車内アナウンスとタイヤのロードノイズが響き始める。
乗客が各々の旅路について話している声を端にやりながら、 ナオヒロは先ほどの男を見ていた。
男は、ぎょろりとした目で車内を舐め回すように見渡している。
一人一人の乗客を、まるで値踏みするかのように追い、
その視線には、人をヒトとして見ていない冷たさがあった。
その目に、ナオヒロは覚えがあった。
胸の奥で──ナオヒロの刑事としての直感が、はっきりと警鐘を鳴らす。
バスはどんどん速度を上げ、 エンジン音と振動を一定に保ったままターミナルから離れていく。
ふと、 男の口元が微かに動いていることに気づいた。
ぶつぶつと、小さく、数を数えるような声音だった。
揺れに合わせるように、男の手元がふと視界に入る。
手のひらに、何やら黒いものが握られていた。
小さなボックスと、親指で押し込みやすい赤いボタンだ。
ナオヒロがすっと立ち上がる。
「ちょっと、君」
穏やかだが、有無を言わせない声。
男がゆっくりと振り返る。
焦点の合っていない目で、ナオヒロを見上げた。
「四十二……」
「なに……?」
「我ら……真なる
聞き慣れない言葉だった。
祈りのようでありながら、
「何をしている!」
ナオヒロが一歩踏み込む。
男が立ち上がり、 コートの前をばさりと開いた。
中には、防弾ベストのようなものが見えた。
だが、それは防護のための装備ではない。
赤色の薬品を満たした
男の袖から白い導線が伸び、 足元のキャリーケースの隙間に繋がっていた。
その中にも同じ色のボンベが覗いている。
「
男の親指が、スイッチのボタンにかかる。
「伏せろ!!!」
「我らを導き給え!」
ナオヒロの叫びと同時に、男が叫びながらボタンを押す。
「神よ! ここに降り給え!」
シューッ、と空気が裂ける音がした。
胸元、腹部、キャリーケースの内部から、一斉に赤色の
圧縮された薬品が霧となって車内に広がり、 照明に照らされて不気味に鈍く光った。
視界が、瞬く間に真っ赤に染まっていく。
それはただ散布されるのではなく、 確実に、車内すべてを満たすように拡散していた。
生暖かくて少し粘り気のあるものが、皮膚の上を撫でていく感触がした。
薬品の中に金属のような臭いと味が混ざって全身を刺激する。
「
「ガスだ! バスを止めろ!」
そういうと、ナオヒロが男に飛びついた。
タックルの要領で男の胸にしがみつき、そのままバスの前方へ押し込んでいく。
それと同時に急ブレーキが踏まれ、バスが必死に止まろうと悲鳴を上げた。
──気づいた時には身体が浮いていた。
カレンは座席にしがみつく間もなく、内臓が置き去りにされるような衝撃とともに、 前の座席に身体を押し潰していた。
立っていた乗客たちは悲鳴を上げながら倒れ、投げ出され、通路に折り重なった。
骨と金属と肉がぶつかる鈍い音が、車内に連鎖していく。
通路の手すりが鳴り、悲鳴が重なっていく。
その間も男の体とキャリーケースから赤色のガスが吹き出し続け、車内は既に赤色で塗りつぶされていた。
前も──後ろも──隣に座っていたはずの人の顔さえ見えない。
目が痛い。
細かい砂のようなものが目に入り、視界を潰す。
何がどうなっているのか、誰もが追いつけない速度で事態が悪化していく。
ブレーキの
エンジン音だけが虚しく
「お父さん!!」
赤色の向こうにいるはずの父を呼んだ。
一寸先すら見えず、ナオヒロの姿を捉えられない。
煙たすぎて襟元を口に当てる。
「窓から出るんだ!」
姿は見えないが、ガスの向こうからはっきりと父の声が聞こえた。
その声を聞いた多数の乗客たちが周りでバタバタと音を立てた。
息を吸うたびに喉の奥がひりつくように焼け、胸の内側に異物が流れ込んでくる。
肺の奥まで重たい違和感が沈んでいくのが分かった。
吐き出そうとして咳き込むたび、逆にガスを深く吸い込んでしまう。
気持ちが悪い。
視界が滲み、目の奥がずきずきと痛んだ。
「げほっ……っ、う……」
手探りで窓ガラスに手を伸ばすと、金属の取っ手が指先に触れた。
半ば反射的にそれを押し上げると、バスが外の空気を吸い込むように、車内へと外気が流れ込んできた。
「出なきゃ……」
自分の声がやけに遠い。
視界がぐるりと傾き──背中からアスファルトに叩きつけられた。
肺の中の空気が一度に抜け、息が止まった。
「いっ……!」
遅れてやってきた衝撃に、カレンは短い悲鳴と共に
背中、肩、
それが転落の衝撃なのか、ガスに侵されたせいなのか、もう区別がつかない。
身体の内側も外側も、同じように軋むような痛みに苛まれていた。
それでも、バスから離れなければならない。
恐怖と嫌悪感から逃れるように、 指先に力を込めてアスファルトの上を
息は浅く、視界は
──そのときだった。
地面に爪を立てる自分の手──黒い鱗に包まれた蜥蜴のような手が目の端に映った。
「……え?」
鱗が生えた右手が自分のものだと理解するのに数秒かかった。
さっきまで確かに見慣れていたはずの、自分の肌色の手。
その輪郭が黒々とした鱗に
左手に痛みが走り、 息を
黒い鱗が熱と痛みを伴いながら皮膚の内側を這い、手首から肘を越えて肩のほうへと押し上がってくるのが見えた。
「やだ……や……っ、やだ……っ!」
左腕を左右に振り、右手の爪で、指で、黒いものを払い落とそうとする。
しかし触れるたびにじくりと鈍い痛みが走るだけで、変化は止まらない。
皮膚は次第に硬さを増し、冷たい
痛みで発熱していたはずの身体が徐々に冷めていくのが分かった。
「足が……! 俺の足が──!」
周囲からも徐々に悲鳴が上がり始め、 カレンは首だけを動かして周囲を見渡した。
そこは──まさに地獄だった。
「いたい! なにこれ、やだ、やだぁっ!」
「誰かぁ! たすけて!」
体が異様に膨れあがり、服の隙間から粗い体毛が噴き出してくる男。
背中のシャツを突き破り、鳥のような羽が骨の音とともに伸び始めた子ども──を抱きかかえながらも、自身も足が犬の後脚になりかけているせいで不自然に折れ曲がってしまい、這いずることしかできない女性。
目の前に広がる惨状に、喉がひくりと鳴った。
“人”が“ヒト”で無くなっていく。
その過程を、逃げ場もなく見せつけられていた。
その拍子にカレンの脳裏によぎったのは、今自分がどうなっているかだった。
腰から下の感覚が、すとんと抜け落ちている。
地面に這いつくばっているはずなのに、脚があるのかどうかも分からない。
両手だけじゃない。
自分の体が、今どうなってしまっているのか確かめるのが怖かった。
世界が──変わっていく。
サイレンの音。
ざわめきと悲鳴と、誰かの
振り返ると、中が真っ赤に染まったバスの姿があった。
少しずつ暗く滲んでいく。
血を吐き出すように、バスの隙間という隙間から赤い霧だけが、絶え間なく流れ出ている。
意識が遠のく──。
父は──未だに姿を見せない。
深くて厚い水の中に沈むように周りの音が遠のき、カレンの意識はそのまま深く沈んでいった。
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