長年自分を騙してきたおかげか、ようやく安住の地を見つけた。俺が僕になることは叶わないけれど、確かに幸せというものがあった。営業の仕事に就くと天職だと感じた。無敵だった。俺は人間関係の構築というのが実は得意だったらしい。業績は鰻登りに上がり、仕事仲間にも恵まれ、月に何度も遊ぶ友人ができたくらいだ。その友人から紹介してもらい、人生初の彼女ができてそのまま結婚までこぎ着けた。子供も生まれてもう小学生だ。順風満帆とはまさにこのことを言うのだろう。

 痛みに耐え、安住の地にたどり着いた俺はそう回想に耽る。もう耐える必要がないと思うと先程までの苦痛も忘れてしまいそうだ。しかし、憂いは簡単に踵を返してくるのである。

 目先にあるのは欠落だった。

 汚れに塗れた俺を拭き取る手段がとうにない。あるべきはずのものがないのは孤独故である。


 嘘はいとも容易く綻ぶ。少しでも穴が空いたらじょろじょろ零れ落ちて、時間が流れるほどたくさん流れ落ちる。たった一度の油断が大敵だ。二人が愛とその一生を捧げることを誓う呪縛をかけた丁度一年後の祝福が必要とされるその日に、俺は居合わせることができなかった。同僚との飲み会を断れなかった。既に断るという選択肢は俺の中からその存在を抹消されていたのだ。幾度となく飲みという行為を仕方なくやってきた。内心では飲みニケーションなんてごみニケーションだと俺は考えていたが。関係の崩壊を恐れる俺は臆病で、俺は俺自身に嘘を重ねた。重ねた分だけ厚くなって見つけやすくなる。その日が俺に眠る弱い僕を明らかにした。

 月明りが感じられない都会の冷たい闇に暖かい橙色が溶けてぼんやりとした視界の中、木枯らしに乗る心地よい喧噪が耳を支配したからか、新橋駅から目的とする居酒屋までの足取りは意外にも羽根のように軽く、時が流れるのは一瞬だった気がする。そそくさと席に座った俺は他の人に注文を譲らないで、柄にもなく生一つと大声で唱えるのだった。何の会話をしていたかは覚えているはずもない。何かを忘れたいがために、アルコールを流し込んだ結果だ。喉が焼けるようであったがジョッキを呷る手は止まらず、細胞が死んでいき身体が使い物にならなくなる感覚がわかった。飲みすぎだと諭され、唐揚げを口に詰め込まれたが俺の嫌いなレモンがかけてあった。鼻に抜ける柑橘の爆発が俺を取り巻く乱雑な酩酊を破壊して、そのまま目の前に俺の腹の内が吐き出されてしまったようだ。油とアルコールの匂いを吹き飛ばして、邪悪な香りをまき散らした。熱に浮かれた会場は一気に冷え込み、お開きとなった。

 夜も更けて、冷たい風が頬に当たると陶酔を否応なしに醒まさせる。帰り道の景色は変わらないが、その解像度が上がった。道行く顔ぶれはみな口角が上がっていて、明るい声が響いている。とてもとても寒かったから、包み込む暖かさが欲しくて堪らなくて羨ましかった。しかし、叶うことがないのは重々承知だったので、凍えながら鉄の塊に乗り込み、足元を強く焼かれる暖房に縋ることしかできなかった。揺り籠の微睡の中でも眩しく光る液晶に目を落とすと、そっかという三文字が反射した。目は乾かず反対に潤いで満ち満ちていた。多くの乗客が夢の世界を旅している車内で、背もたれに全体重を預けて脱力した俺だけの目が醒めていて、俺は窓に映るぐちゃぐちゃな自分の姿その一点だけを見つめていた。

 速度とは裏腹に、ゆっくりと時間が流れた。

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