通ずる
喜楽平口
幼虫
踏ん張る、踏ん張る、踏ん張る。どんなにつらくとも踏ん張る。
俺は男だから大丈夫。大丈夫だと言い聞かせる。
本当は大丈夫などではないのに。
猛烈な痛みが身体を覆う。激辛料理を食べたときのように、内からぐつぐつと煮えたぎるような熱さが消化管全体に突き抜ける。
痛い、痛い、痛い。悶えてばらまけてしまいそうだ。
それでも自分を騙して、誤魔化して、安住の地に懸命にたどり着こうと必死にもがく。歩み続ける。もう騙せてなどいないのかもしれない。しかしそれでも、欺瞞とは表裏一体の信を心に携えて、懸命に足を前にと出し続ける。
——いつからなのだろう。自分を欺くようになってしまったのは。
あれは小学何年生のときだっただろうか。子供ではありながらも、子供らしからぬ社会性を、人間らしさを身に着け始めるこの時分。俺は内気な少年あるいは餓鬼だった。休み時間には教室の隅で自由帳に絵やらなんやらを書き留めるような僕であった。だが内に秘めたる思いは純然で可愛らしく、一人の女子を想い続けていたのだ。教室の教卓側の扉から対角線上の窓側で、並べられた山ほどの力強い漢字を背負い座っていた僕は窓の外にあまり熱中しない代わりに、廊下側前方の席ばかりを壁に貼り付けられてあるお知らせを見ているふりをしながら見つめていた。切掛けが何だったかというのは今や思い出すことはできないが、きっと些細なことだったのだろう。アゲハ蝶が飛翔する純白の大地に、丸くて美しくて触れば柔らかい字が残っていたことだけが鮮明に思い出せることだった。人物画をよく描くようになったのもこの頃からだったと思う。彼女の姿を一枚の繊維の束の上に表現しようと、何度も試したが終ぞ思い通りになることはなく、消しゴムのかすばかりがあふれ出て、零さないようにと練り消しが何個もできた。卒業するころには練り消しマスターになれていただろう。
だが、そうはならなかった。
露呈する、すべてが。
秘密というのは秘密であるからこそ暴露されるもので、本当に隠したいのであれば隠さない方が良いまである。この真理に今しがた到達したような気がする。
偶然あの子が僕の席の横を通りかかっただけだ。そして偶々彼女を稚拙に写すひび割れた鏡が僕の机に広げられていただけなのである。あの時分の子供というのは愚かだ。素直になんてなれやしない。情念を必死にひた隠しにしようとして、自分の想いばかりが気になって、平気で兵器を使い出す。僕は教室に居られないと思った。虫眼鏡が太陽の光を集めて紙を燃やすことができるように、皆の視線が僕に集まり熱い光線となって、僕の居場所を焼き尽くすかと思えた。僕は飛び出すしかなかった。それ以外がわからなかった。
その日の帰りの通学路はいつもとは全く違っていて新鮮だった。道路には何時でも元気にけたたましい子供たちの姿はなく、寡黙とならざるを得なかった大人も何故か全く見られなかった。世界には僕だけしかいないのではないかと、不安に心をじわじわと食い潰された僕はなけなしの百円玉を握りしめて、駄菓子屋に寄り道をすることにした。不安を逆に食べてやりたいからだ。軋んだ音を立てる戸を力いっぱいに開いて甘い世界に這入った。皺でいっぱいの顔のお爺さんにいらっしゃいと言われると、なんだか救われたような気がして、堰き止めていた宝石の粒がぽろぽろあふれ出した。店主が何も言わずに寄越したシガレットは、いつもより苦いはずなのに、ぽりぽりと音を立ててすぐになくなってしまった。
気持ちも晴れたかと思えばすぐに暗雲が立ち込めた。枯れ切った後の僕は再び帰路につき、家にまでたどり着くのはあっという間だったが、扉を閉めて世界との断絶が訪れると、世界に救われていた僕は頼みの綱を失い、今日という最悪が襲い掛かってきて、自責と後悔の念が噴き出した。純朴さは吐き出せず、その身に宿る悪辣さだけを吐き出したことを理解した。ランドセルから呪いの品を取り出して、真っ白な頁を黒で塗りつぶし、隠すようにその歪さと流麗さを併せ持つ線たちの並びをめちゃくちゃにした。耳障りな音を立てながら引き裂いて、引き裂いて捨て去った。
何もかもが燃えた。パチパチと鳴る音は泡の割れる音のようであった。融けて開いた胸に跳ね返って突き刺さった刃物を抜こうとして力を入れても、ますます奥に刺さるだけだった。あんまりにも痛いので、僕を包み込んでくれるものが必要になった。
だから、僕が俺になった。
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