第四話
ゆさゆさと肩を揺さぶられる。
「……く、……静玖」
――もう朝?お母さんが起こしに来たのかな……。
でも、お母さんの声とは違う気がする。
わたしはゆっくりと目を覚ました。
「……え、凪冴くん?」
目の前にいたのは凪冴くんだった。
辺りを見渡してみると、どうやらここは学校の音楽室らしく、わたしは椅子に座っていた。
「……そうか、夢か」
そう思って、えいっと自分の頬を抓ってみる。
「……痛い」
「気持ちはわかるけど」
そう、低く落ち着いた声に言われた。
え、とわたしは目を丸くした。
「今の……凪冴くん?」
思わず訊いてしまったわたしに、「うん」と肯定の言葉が返って来た。
凪冴くんをよく見てみると、いつもしている補聴器をしていなかった。
「僕さ、ちゃんと喋れるし、音も聞こえているんだ」
「……やっぱり夢?」
もう一度頬を抓る。痛い……。
「夢じゃないよ。現実みたい」
「……そうみたいだね」
「まあ、今夜は満月だし、不思議なことが起こってもおかしくはないよ。それに、静玖と話したいと思っていたから、会えてよかったな」
ふふっと笑って凪冴くんも椅子に座った。
何だかこの不思議な時間を手放すのは惜しくて、わたしたちは二人で今日あったことを話した。
凪冴くんとこうやって話す時が来るなんて想像もしていなくて。その低くて心地よい声に「ああ、男の子なんだな」って、そんな当たり前のことを思ってどきどきした。
そういえば、と凪冴くんが何かを思い出したようだ。
「今日音楽室に来なかったけどどうかしたの?」
真剣な眼差しで見つめられ、わたしは咄嗟に顔を逸らした。
ゆっくりと凪冴くんが声を発する。
「……もしかして、見ていた?」
告白現場を、とは言われなかった。
何か言わないと、と思ったけれど何も言えなくて、わたしはただ小さく首を縦に振った。
――見られちゃっていたか……。
口の動きでわかった。多分、凪冴くんはそんなことを呟いた。困ったように視線がうろうろとしている。
――「あの子と付き合うことになったんだ」
そう言われるんじゃないかと思ってしまって。知りたい気持ちと知りたくない気持ちが相反して、何だか怖い。
沈黙の中、凪冴くんが何かを閃いたようだ。
「ねえ、歌でも歌わない?今こそ二人で音楽を奏でる時だと思うんだよね」
突然の言葉に驚いていると、凪冴くんが手を差し出してきた。
「……何この手」
「いいから握って」
「……恥ずかしいんだけど」
「いいから早く!」
ぷらぷらと手を振られて、わたしはおずおずと手を掴む。すると、ぎゅっと繋がれて引っ張られた。
はい、ここに立って、と指揮台の上へと導かれる。
「ねえ、本気?」
「本気本気。今なら誰もいないし、歌いたい放題、弾きたい放題じゃん!」
――いや、あなたはいつも弾きたい放題だけどね?
そんな突っ込みができる雰囲気ではない。
覚悟を決めるしかなさそうだ。
重力で足に地面がずっと着いている状態なのに、わたしの心はわくわくとどきどきでふわふわと浮わついている。
月明かりが辺りを照らす。窓から見た空には大きな満月が浮かんでいる。
凪冴くんがピアノの蓋を開ける。白と黒の鍵盤が中から現れた。椅子の高さを調節して、ゆっくりと座った。
「何の曲にする?」
「あれなんかどうかな」
凪冴くんが口に出したのは恋のバラードだ。
凪冴くんが滑らかに前奏を弾き始める。顔を見合わせて、わたしはすうと息を吸った。
声に出して、指を動かして、思うがままに二人で音にする。お互いに失敗しているところもあるけど、その度に二人で笑いながら音楽を奏で続けた。
満月だけがわたしたちの秘密の合奏を聴いている。
――やっぱり、わたしは音楽が好きで、凪冴くんのことが好きなんだ。
強く、強く思った。
音楽は終わりへと近づいていく。
――ずっとこの時間が続けばいいのに。
そう、本気で願った。
楽しくて、終わるのがちょっと寂しい。ずっとずっと歌っていたかった。
この曲は恋の歌。わたしの凪冴くんへの想いも乗せて、この気持ちが届いたらいいのに。
最後の一音までわたしはわたしがもてる限り歌った。
ゆっくりと口を閉じる。ピアノの音が響き終わった後、凪冴くんは鍵盤から手を離した。
「……終わっちゃった」
わたしが独りごちると、凪冴くんがゆっくりとピアノの蓋を閉めた。
わたしたちの約束は叶えられた。
――これで、終わりか。
終わって、しまった。
――いっそのこと、約束とともに凪冴くんへの気持ちも終わらせようかな。
どちらも綺麗なまま心の中に閉まっておきたい。
鼻がつんとした。今涙を流したら、凪冴くんに泣いていることがバレてしまう。
泣きそうになるのをぐっと堪えていると、凪冴くんがわたしの目の前へと歩いて来た。
「あのさ、言いたいことがあるんだけど」
――さっきの話の続きを言われるんだろうか。
幸せな時間は過ぎてしまった。
何を言われるのか怖くて身構える。そんなわたしに、凪冴くんはまるで淡く輝く月のように、優しげに微笑んだ。
「好きだよ」
そっと彼に抱きしめられる。
わたしは言われた言葉が信じられなくてぽつりと呟いた。
「……本当に?」
音の震えが彼の耳へと届く。
「静玖の気持ちは歌で伝わって来たよ。……僕の自惚れじゃなければ、だけど……」
その言葉を聞いて、ぽとりと、わたしの目から涙が溢れた。
わたしよりも大きな手によって濡れた頬を拭われる。
「この涙の理由を教えてくれる?」
凪冴くんに見つめられる。
わたしはゆっくりと腕を回して凪冴くんに抱きついた。
背伸びをして、彼の耳に顔を近づけて、わたしはこの想いを届ける。
「わたしも、あなたのことが好き」
歌うのも上手くない。恋愛も上手くない。
だけど、あなたが好きだと言ってくれたわたしを、あなたのことが好きなわたしを、少しでも好きになってあげても良いかな。
満月の夜に起きた小さな奇跡。わたしたちが好きな音楽は、わたしたちを繋いでくれた。
しじまの音楽 葉野亜依 @ai_hano
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