第二話
目を覚ますと、この一年間で見慣れた天井が目に入った。
ゆっくりと体を起こす。ばきばきっといたる所から音がした。
枕元にある携帯端末を手に取る。時刻を確認しようとしたのだが、日付が先に目に入った。記憶にある日付から十日経っていた。
「あー……やっちゃったな……」
携帯端末を置いてぐぐっと背伸びをした時、がちゃりと扉が開く音がした。
ぱちりと目が合った。
凪音さんは目をまんまるにさせている。
「おはよう」
「おそよう」
「……おそようございます」
挨拶をしたら言い直された。
凪音さんが近づいて来て、ベットの端に腰掛けた。
「迷惑かけてごめんね」
「謝らないでよ」
食い気味の即答に苦笑する。
――結婚してから初めて十眠したな。
十日程眠り続けるこの症状は、通称『十眠』と呼ばれている。
僕は十眠を抱えていた。十眠してしまった際には、毎回伯父夫婦には煩わしそうにされたっけ。
眠って気づいたら何日も経っているこの感覚はいまだに慣れない。
いつ十眠してしまうかわからない。この体質のせいでいろんな人に迷惑をかけてきた。
生き辛いし、そんな自分が情けないと思ってずっと生きてきた。学生の頃、休み続けた僕は理由を凪音さんに話した。愚痴を零してしまった僕に、凪音さんは言ったのだ。
「たとえ十眠を抱えていようとも、晴陽くんのこと嫌いにはならないよ」
優しい微笑みとその言葉に、僕は気が楽になった。
――ああ、こんな自分でも受け入れてくれる人がいるんだ。
そう思えるようになったのだ。
凪音さんの頭にそっと手を置く。さらさらの髪を撫でるようにして僕は問う。
「僕が眠っている間も、ちゃんとご飯食べていた?」
「……食べた」
「こら、顔を合わせなさい」
凪音さんはふいっと顔をそらせた。嘘を吐いているのがバレバレである。これは後でちゃんとご飯を食べさせないと、と思っていると、徐に凪音さんが僕を見つめて来た。
薄桃色の唇がはくはくと動く。
――何だ?
訝しげに見つめていると、意を決したかのように凪音さんが言った。
「晴陽くん、キスして」
「……ええっ!?」
小さな声で言われた言葉に僕は驚きの声を上げた。
――今、なんて言った?
「心配掛けたお詫びに、キスして」
「お詫びって……」
言い淀んでいると、途端に凪音さんは不機嫌になった。
普通の夫婦だったら、奥さんの機嫌を取るためにここでキスをするのが正しいのかもしれない。
けれど、僕たちは契約結婚だ。本当の意味では夫婦ではない。
「……僕たち、キスする関係でしたっけ?」
「夫婦でしょ」
「夫婦だけど……」
契約でしょ、という言葉は続けられなかった。
ぐいっと凪音さんが顔を近づけてきたからだ。
咄嗟に僕は身を引いた。すると、凪音さんの機嫌はますます悪くなった。
――本当に、してもいいんだろうか。僕たちは契約夫婦なんだぞ?
でも、僕は凪音さんのことが好きだ。キスしたくないかと言われれば、したいに決まっている。
ああ、こんなことなら、学生時代に凪音さんに好きと言っておけば良かった。それで、もし付き合えていたら……そうしたら、キスだけでこんなにも悩まずに済んだかもしれないのに。
なんて、昔のことを考えている場合ではない。問題は、今、この瞬間に起きている。
――心配掛けたお詫びにってことは、心配してくれたってこと?
不謹慎ながらもそのことが嬉しい。そして、凪音さんとキスできることは僕にとって嬉しいことで。
でも、僕と彼女は契約上の夫婦でしかなくて。堂々巡りで思考が定まらない。
――ええい、男は度胸だ!
僕は凪音さんの前髪を上げて、そこにそっとキスをした。ぴしりと固まった凪音さんの、今度はこめかみにキスを一つ。
恐る恐る様子を窺った。「そこじゃない!」と怒られたらどうしようかと思いながら。
長い髪の間からのぞく凪音さんの耳は真っ赤だった。ぷるぷると震えている。俯いていた顔を上げると、その顔は赤く染まっていて。
「晴陽くんのこと一番知っているのはわたしだからね!」
「……そうだね?」
唐突に何をと思ったが、その言葉に首肯する。僕の家庭事情を知っているのは凪音さんだけだし、十眠のことも、趣味嗜好のことも、だらしないところも、一番知っているのは凪音さんだろう。この一年で前よりもお互いのことを知ることができた。良いところも悪いところもだ。
言いたいことを言って満足したのか、凪音さんがベットから飛び降りた。ご飯作るから、と言って、鼻歌を歌いながら上機嫌に部屋から出て行く。
「一体何だったんだ?」
――女の子ってわからない……。
残された僕は首を傾げるしかなかった。
*
靴を履いていると、とてとてと廊下を走る足音が聞こえてきた。
後ろを振り返るとこちらを窺っていた凪音さんと目が合った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
と、その時つい、とシャツを裾を引っ張られた。意図を察して少し前屈みになる。
凪音さんの前髪を分ける。両肩にそっと手を置くと、彼女の華奢さがよくわかった。
顔を近づける。心臓がどきどきしている。この心臓の音が聞こえていませんようにと思いながら、その小さな額に唇を落とした。
頬を染めてくすぐったそうに凪音さんが笑った。甘酸っぱいこの時間に、僕は幸せを感じている。
明らかに変わったのは十眠から目覚めたあの日からだった。初めて、凪音さんにキスをした日。……とは言っても、唇にはまだしていないけれども。
僕の覚悟と意気地がないせいだ。
所詮、僕たちは契約結婚だ。仮の夫である僕が凪音さんの唇を奪って良いのかと思うと、どうしても踏み込めなかった。
それでも、凪音さんはとても満足そうに微笑む。
あの日からキスをねだられるようになったのだが、こうしてねだられてしまったら断れない。僕が凪音さんに弱いだなんて今に始まったことではない。
キスをしても、相変わらず凪音さんに好きだとは伝えられていない。
好きだと伝えて、この関係が変わってしまうのが怖いのだ。
でも、キスを通して僕の気持ちが少しでも凪音さんに伝わったらいいのにとも考えてしまうのも事実で。
がちゃん、と扉が閉まる。
「ままならないなぁ……」
空を仰ぎながら、僕はぽつりと呟いた。
いとしきまどい 葉野亜依 @ai_hano
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