第2話 伝説の毛玉


 聖堂を脱出してから、どれほどの時間が経っただろうか。

 背後にそびえていた王都の尖塔はすでに遠い。レンの周囲を囲んでいるのは見上げるほどに巨大な樹々が鬱蒼と茂る未踏の森だった。


「はぁ……ようやく、静かになった」


 レンはフードを深く被り直し、小さく息をつく。

 

 追手の気配はない。

 あの場にいた全員がレンの放った“拒絶”の波動に精神を焼かれ、まともに動けるようになるまでには相当な時間がかかるはずだ。


 ふと視界の端に、浮かび上がる半透明な文字列が目に入った。

 召喚された際に、レンの脳内に直接刻み込まれたこの世界の断りーー“ステータス”だ。



固有能力ユニークスキル

神域の孤独サンクチュアリ・エゴイスト

■パッシブ:『神の造形ゴッド・アピアランス

・全種族の好感度・畏敬の念を強制的に引き上げる。

・「不快」と感じる相手には、その好意が「恐怖」や「圧迫感」へと反転。

※本人の意図に関わらず常時発動。

■アクティブ:『絶対拒絶』

・下心、利用価値、あるいは不純な執着を持って触れようとする者の精神を直接破壊、または恐怖で服従させる。


【聖域の魔力】

・無意識に魔力放出し、周囲一定範囲に対して以下の効果をもたらす。

 荒ぶる魔力の沈静化し、精神的な「安息地(サンクチュアリ)」となる。

 周囲の植物を急成長または土壌の浄化。



「……最悪だ」


 レンは忌々しげにその文字を払った。

 この能力は、レンが最も嫌う「他人から一方的に期待され、執着される」ことをシステムとして強制するものだった。

 【神の造形】ゴッド・アピアランスで人を狂わせ、その狂った相手を【絶対拒絶】で叩き潰す。

 それはレンにとって、永久に終わることのない孤独の連鎖を予感させるものだった。


「まぁでも……むしろ良かったかもしれないな。人間関係に悩まなくていいんだから」


 レンは自嘲気味に笑った。

 この忌々しいスキルを上手く利用できれば、今度こそ、誰の気にしない“自由”が手に入るはずだ。


 そう。彼がほしいものは世界を救う力でも、万人から愛されることでもない。

 ただ、一人の普通の人間として、何ものにも縛られず、ありのままでいられる自由。

 その自由を手に入れるためなら、自分を縛ろうとする世界すべてを拒絶してやる。


 物思いにふけっていると、足元の草むらがガサリと揺れた。

 そこから現れたのは、額に鋭い角が生えた《角ウサギホーンラビット》だ。


 ウサギはレンを発見して、一瞬だけ警戒するように耳を立てた。

 だが、次の瞬間にはその瞳に陶酔したような光を宿し、あろうことかこちらに近寄って来た。

 トテトテと寄ってくると、ウサギはレンの靴に頬を擦り寄せ始めた。


「えーっと……悪いけどエサは持っていなんだ」


 魔物までこうなるとは。【神の造形】ゴッド・アピアランスの強制力には呆れるばかりだ。

 レンは靴に擦り寄っているウサギを優しく脇へ寄せ、さらに森の奥へと進み始めた。


 目指すのは“人間が容易に近づけない場所”だ。

 人間関係のしがらみのない場所こそが、今の彼にとっての楽園になりえるのだから。


 だが、森の深淵に足を踏み入れた瞬間、空気が一変する。

 周囲の温度が急激に下がり、肌を刺すような冷気が立ち込めてくる。


『グルルル……ッ』


 まるで地響きのような唸り声。

 前方にある巨大な岩陰から、それは現れた。


 銀色に輝く美しい毛並み。大樹を見下ろすほどの巨体。

 そして、すべてを凍りつかせるような冷気をまとった瞳。

 伝説の魔獣・スノーフェンリルである。


 魔獣は、侵入者であるレンを排除すべく、巨大な顎を開いた。

 その口内からは、絶対零度の吹雪が漏れ出ている。


 普通の人間なら、恐怖で心臓が止まる光景だろう。

 だが、レンは動じなかった。

 それどころか、その瞳をキラキラと輝かせ、思わず感嘆の声を漏らした。


「なんて、……なんて綺麗なんだ」


 それは、打算も下心もない、純粋な称賛だった。

 レンはゆっくりと魔獣へと近づいていく。


 そんなレンの行動に、今にも襲いかかろうとしていた魔獣は困惑したように吹雪を吐き出していた口を閉じ、動きを止めた。


 魔獣は目の前の人間からは、自分を害そうとする一切感じられないことに気づいた。

 それどころか、彼から溢れ出している魔力は、魔獣が出している荒れ狂う猛雪を鎮めるほどに清らかで、あまりにも心地よかった。


「驚かせてごめん。戦うつもりはないんだ。

 ただ、……少しだけ休める場所を探しているだけなんだ」


 レンは魔獣へと無防備に手を伸ばして、鼻先に触れた。   


 鼻先から伝わるレンの手のひらの温もりに、魔獣はびくりと身体を震わせた。

 そして、レンが恐ろしい魔獣としてではなく、“美しい存在”として自分を見ていることを感じ取った。


『……おい人間、貴様。

 我の氷気(ひょうき)に当てられて、正気を失ったのか?』


 不意に、レンの脳内に直接響く声がした。

 重厚で、峻烈な冬の嵐を思わせる厳かな男の声。


 レンは驚いて目を見開いたが、その瞳に宿るのはやはり恐怖ではなく、純粋な好奇心だった。


「すごい……。これは念話、かな?

 意識を直接共有しているのか。魔法ってすごいな」


 ファンタジーみたいだ。

 ほんとに異世界に来たんだな。


 レンは魔獣からの念話を受けて、異世界に来たという事を改めて実感した。

 

『いや、そうではなく

 他に言うべきことがあるだろう』


「他に言うべきこと……

 そういえば名乗ってなかったね。僕はレン。

 君の名前は?」


 相手が人間ではないからだろう。

 レンはこの魔獣ともう少し話がしたいと思い初めていた。


 魔獣は、レンのあまりにも警戒心のなさにため息をついた。


『……はぁ、驚くべきは警戒心のなさだ。

 我が名を問う前に、恐怖でひれ伏さぬ者は数百年ぶりだ』


 魔獣は巨大な瞳を細め、目の前の小さな存在を観察した。

 この男からは、自分を討伐して名声を得ようという醜い欲も、力にすがりつこうとする卑屈さも感じられない。

 ただ、凍てついた自分の心を溶かすような、陽だまりのような魔力だけが溢れ出していた。


『……人間にしては珍しい面白い魔力だ。数多の者が我に傅けと剣を向けた。

 だが、貴様のように“綺麗だ”と笑いかけてきた者は初めてだ』


 魔獣はその巨大な前足をレンの前に差し出し、頭を低く垂れた。

 それは、自ら“敗北”を認めたのではなく、対等あるいはそれ以上の存在としてレンを“主”と認めた瞬間だった。


『ふふ、ははは。貴様、気に入ったぞ。我をこれほどまでに骨抜きにしたんだ。

 当然、連れて行ってくれるよな?』


 魔獣の変わり様に、スキルの強制力に恨めしい気持ちになる。


 目の前にいる、この綺麗な魔獣までもがこのスキルのせいで。

 思考がどんどん深い所へ沈んでいくのが分かる。


『貴様、失礼なことを考えているな』


「えっ」


 魔獣の顔が、レンは顔前に迫る。


『どうせ、我が貴様に好意を寄せるのがそのスキルのせいだとでも思っているのだろう』


「な、なんで」


 目を見開くレンを見て、魔獣がため息をつく。


『他の小物はどうかは知らんが、我ほどになるとそこまでの強制力はない』


「そ、そうなのか?」


『ふんっ、我ほどとはいかなくとも、精神抵抗の強い存在からすれば、貴様など取るに足らなんわ』


 巨大な前足をレンの腹部の上にのせる。


『貴様と共に行きたいという我の意思だ!』


 腹部にのせた前足の重みが少し増す。


 スキルの強制力に植えつけられた好意ではない。

 僕自身を見て、一緒に行きたいと思ってくれている。


 自分の意思を勝手に解釈されて、勝手に分かった気になられる。

 それが、どんなに不愉快なものか嫌というほど分かっていたのに。

 身に沁みるほど。


「ああ……そうだね。

 ごめん、僕は君に失礼な事をしてしまった」


『我を連れて行ってくれれでば、許してやる』


 魔獣は前足をおろし、レンの目をまっすぐ見つめた。


「ああ……もちろん。一緒に行こう」


『っふん、最初からそう言えばいいのだ』


 素っ気ない反応ながらも、尻尾が左右に揺れているのが分かった。


 レンは右手で、魔獣の額に触れた。


「あっ、そうだ。名前!

 せっかく一緒に旅をするんだ。君の名前を教えて」


『名か……。貴様がつけよ』


「僕が?」


『我らにとって、名とは特別なものだ』


「特別なのに、僕がつけてもいいのか?」


『今日より貴様は我の主だ。主としての最初の仕事だぞ。

 変な名をつけてくれるなよ』


「責任重大だね」


 レンは少し考え、その透き通るような白い毛並みに指を這わせた。


「ブラン。フランス……僕の故郷にある言葉で“白”を意味するんだ。

 君の毛並みは、どんな雪よりも美しいから」


『……ブラン、か。……ブラン……。

 ふむ、悪くない。響きが気に入った』


 その瞬間、二人の間に淡い光の鎖が結ばれ、レンの左手首に雪の結晶のような紋章が浮かび上がった。

 契約の成立だ。

 すると、先ほどまで山のように威圧感のあったブランが、一回り、二回りとその体を小さくしていく。


『……どうだ。このサイズなら、主の隣を歩くのにも不都合はあるまい』


 縮んだとはいえ、それでも大型犬を二回り大きくしたほどの巨体。

 だが、その姿はどこか愛らしく、威厳と愛嬌が同居した不思議な魅力を放っていた。


「わっ、すごい。ブラン、本当に可愛いね」


『……ぐっ。か、可愛いと言うな。我は伝説の……っ』


 レンが思わず抱きしめると、ブランは不器用そうに尻尾を振り、ぺろりとレンの頬を舐めた。


 こうして、世にも美しい逃亡者と、彼を溺愛する伝説の毛玉による《ピクニック》が、静かに、そして賑やかに始まったのである。

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