隕石

いつまでも駅前のベンチに座り続けているわけにもいかない。そう理屈で考えたわけではなく、ただ背中から染み込んでくる冷気が不快になり、体の奥に溜まっていた疲労がようやく自覚できるほどに表へ浮かび上がってきただけだった。


 立ち上がろうとして、膝に力を入れた、そのほんの一瞬――世界全体が、まるで遅れて傾き始めたような錯覚に襲われる。


「……っ」


 声にならない息が喉から漏れ、視界がわずかに遅延しながら追いついてくる感覚に、思わず眉をひそめるが、その違和感を分析する余裕はなく、体はすでに次の動作へと移行していた。


 足元が定まらない。


 平衡感覚が狂っているというより、自分の体が、ここに存在するという前提そのものが揺らいでいる、そんな表現のほうが近かった。


 倒れまいとして無意識に踏み出した一歩、その先が安全な地面であると信じ込んでいた判断は、次の瞬間、乾いた音とともに裏切られる。


クレーターの縁、アスファルトが、崩れた。


 視界の端で地面が割れ、重力が一気に方向を変える。


 気づいた時には、すでに体は前方へと投げ出され、空気を掴むことすらできないまま、内側へと滑り落ちていた。


「――ぁ」


 喉が震えただけの声が、静まり返った駅前に虚しく落ちる。


 ほんの数メートルのはずの落下が、異様なほど長く感じられ、背中に伝わる衝撃が来るまでの時間が、引き伸ばされたフィルムのように伸びていく。


 次の瞬間、鈍い痛みとともに背中を強打し、肺の中の空気が一気に押し出され、呼吸という行為そのものを忘れさせるほどの圧迫感が胸を締め付けた。


 視界が揺れ、焦点が定まらないまま、無意識に顔を横へ向けたその先に――それは、あった。


 クレーターの底。


 黒く、形容しがたい質感を持つ塊。


 金属でも岩でもなく、光を反射するでも吸収するでもない、存在感だけが異様に強調された隕石。


 それに近づいた、正確には、近づいてしまった瞬間。


 頭の奥が揺れた。

 殴られたような衝撃ではない。

 焼けるような痛みでもない。


 むしろ、脳の内側から外へ向かって、無理やり拡張される感覚。何かを押し込まれる感覚…。


「ぐ……っ」


 声を出そうとしたが、喉が動かない。助けを呼べない。


 こめかみの奥で鈍い圧迫が膨れ上がり、思考が圧縮され、逃げ場を失ったまま内側で暴れ回る。


 吐き気が一気にせり上がり、胃の中身が裏返る感覚に襲われるが、実際には何も吐き出せず、ただ喉の奥が痙攣するだけだった。


 全身が、重い。


 筋肉が鉛に置き換わったかのようにだるく、指先一つ動かすことすら、異常な集中力を必要とする。


 ここから離れなければならない。


 本能が、そう告げている。


 だが、体はその命令を理解していながら、実行するという選択肢を最初から持っていないかのように、地面に縫い止められていた。


 疲労に、崖から落ちた痛みに、俺は抵抗できなかった。


 このまま死ぬのだろうか。意味も分からない隕石にこのままやられてしまうのだろうか。


 俺がそう思った時、唐突に。


 それは、始まった。


 音ではない。


 声でもない。


 にもかかわらず、確かに「何か」が、一定の方向性を持って、頭の内側へと流れ込んでくる。


 拒絶する暇はなかった。することはできなかった。


 理解しようとするより先に、脳がそれを受け取ってしまう。

――流れ込む。


 《――ザ・ル=ナイア

  クァル・トゥ=メア

  イシュナ・ロ=フェン……》


 理解できない。

 文法も、構造も、音韻も、

 どの言語体系にも当てはまらない。


 それなのに、

 異物感だけは、はっきりと分かる。


 頭の奥で、

 誰かが英語辞典を無理やり押し込んでくるような感覚。


 ページをめくる暇もなく、

 次々と、次々と。


 《――カ・レム

  ミソギィ=エル

  トゥ・ラ=グナ……》


 自分の名前に近い音が混じった気がして、

 背筋が凍る。


 だが、意味は分からない。

 意図も、感情も、存在しない。


 ただの情報の奔流。


 隕石が、何らかの力を持って脳のどこかに無理やり回路を作り、

そこに“未整理の何か”を流し込んでいる。


 そんな錯覚。


 吐き気が、さらに強くなる。


 視界が、完全に白飛びする。


 それでも、

 言葉だけは止まらない。


 《――フェ=ルナ

  シア・トゥル

  ヴァ・ナ=クァ……》


 頭痛が、爆発する。


 痛みと共に、

 言語が砕けるように崩れ始めた。


 音節が歪み、

 構造が壊れ、

 もはや「言葉ですらない何か」へと変質していく。


 《――ナ……ザ……

  ル、ル……

  ……ッ》


  最後に残ったのは、

 意味不明な“響きの残滓”だけ。


 それが、

 脳の奥深くに、

 焼き付くように沈んだ。


 ――理解は、ない。

 ――知識も、ない。

 ――意思も、ない。


 ただ、

 残った。


 まるで、

 使い道の分からない鍵を、

 脳内のどこかに放り込まれたように。


 そして。


 意識が、完全に途切れる。


 闇に落ちる。


 ――死にたくない。

そう思いながら

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瓦礫の海を歩く 怠惰 @taida2434

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