第3話 天孫降臨

天照大御神が天岩戸に隠れてしまった時から長い時が流れた。

事件の原因となった須佐之男命の数世代後の子孫である大国主命が下界を治めていると言えば、どれほど長い年月が流れたか分かるだろう。

天照大御神は前々から、自分の子である天之忍穂耳命に下界を治めるよう説得を試みていたが、様々な言い訳をしてなかなか下界に赴こうとしない。時が下り、天之忍穂耳命に子が生まれ、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命と名付けられた。

天之忍穂耳命は、邇邇芸命に地上を治める役目を譲り、大国主命からも同意を得て、いよいよ天孫降臨の用意が整ったのであった。


一方、下界では大国主命が突然出雲に隠居し、二人の息子たちも行方知れず。そして、天照大御神の孫である尊い神が降臨するという。

下界の国つ神たちは混乱をきたしており、あまり世情に口出しをしない猿田彦も、その混乱に巻き込まれていた。

「俺に迎えに行けと言うのか。礼儀など知らぬぞ」

「長老である貴方にしか任せられぬのです」

猿田彦は長老だったのか。自覚はなかったが、確かに長く生きてはいる。

「だが、この異形に天つ神は恐れをなさないだろうか」

「大国主命様への仕打ちの意趣返しをしたいではありませぬか」

まあ、一理なしとも言えず、猿田彦は渋々引き受けた。迷いやすいと言われる分かれ道で天つ神の出迎えをすべく、待ち構えることにした。

正直、面倒だった。天つ神など、猿田彦の異形を見れば恐れおののくか、侮蔑の目を向けるか——どちらにせよ、良い思い出はない。あの天岩戸の宴も、珍しく招待されたと思えば、ただ数を揃えるためだけだったのだろう。

ただ——

あの時の女神だけは、違った。

あの時の舞を猿田彦は今でも覚えている。

皆が熱狂する中、彼は美しい笑顔の中にある決然とした覚悟を宿した瞳を。

あれから長い年月が流れたが、あの眼差しだけは忘れられなかった。

そんな過去を思い出しながら、猿田彦は分かれ道で待った。


邇邇芸命とその護衛である五柱の神々は、下界へ向かっていた。

天宇受売命は、護衛の一柱として邇邇芸命の傍にいた。芸能の神である彼女が護衛に選ばれたのは少し意外だったが、思金神は「そなたの機転と度胸が必要になる」と言った。

雲を抜け、地上が近づいてくる。

その時、前方に大きな影が見えた。

分かれ道に、一人の男神が立っている。

鼻の長さは七咫、身長は七尺を超え、目は八咫鏡のように赤く輝き、口と尻も赤く光っている。圧倒的な存在感。異様な風体。

護衛の神々が動揺し、足を止めた。邇邇芸命も警戒の色を浮かべている。

「何者だ……」

「敵か?」

ざわめきが広がる。

天宇受売命は——その姿を見た瞬間、心臓が跳ねた。

あの人だ。

遠い昔、天岩戸の宴で一瞬目が合っただけだったのに、あの眼差しが忘れられなかった。長い年月が流れても、その異形の姿は彼女の記憶に鮮明に刻まれていた。

まさか、ここで——

心の動揺を押し隠し、天宇受売命は進み出た。

「私が行きます」

「天宇受売命、危険では——」

「大丈夫です」

なぜか、確信があった。この人は、敵ではない。

天宇受売命は男神の前に立った。

近くで見ると、さらに大きい。見上げるほどの身長。赤く輝く目。

でも——怖くなかった。

「神の通る道に立っているのは何故か」

天宇受売命は、できるだけ平静を装って尋ねた。

猿田彦は、少し驚いたような表情を浮かべた。この異形を見ても怯えないのか、と言いたげな顔で。

「天から遣わされる神の道案内をしようと待っていたのだ」

低く、落ち着いた声。

敵意はない。むしろ、誠実さを感じる声だった。

「道案内を……?」

「この先は道が複雑で、迷いやすい。俺が案内しよう」

この異形を見ても怯えず平然と話しかけるとは、肝の据わった女神だな——

猿田彦は、天宇受売命の姿をじっと見た。

そして——その赤い目が、大きく見開かれた。

あの時の女神だった。

二人の視線が絡み合った。

時が、止まったような感覚。

周囲の神々の声も、風の音も、何も聞こえない。

それは一瞬。だが、二人には永遠のような時が訪れた。


「俺は、猿田彦。お前の名は」

「天宇受売命だ」


「天宇受売命」

背後から声がかかった。天宇受売命は我に返る。

邇邇芸命と他の神々が、心配そうにこちらを見ていた。

そうだ。今は、下界へ下りる御子様の警護の最中。心を他に奪われている訳にはいかない。

「申し訳ございません」

天宇受売命は一礼して、猿田彦に向き直った。

「では、道案内をお願いする」

「……ああ」

猿田彦も、真剣な表情に戻った。

「ついて来い。必ず、無事に目的地まで導く」

猿田彦は先頭に立ち、一行を導いた。

道中、彼は地の利を活かして最適な道を選び、危険な場所を避け、確実に彼らを目的地へと導いた。その手際の良さ、土地への深い知識に、天宇受売命は感心せずにはいられなかった。

そして——時折、猿田彦が振り返る。視線が絡まる。

猿田彦は、何か言いたげな表情をしては、黙って前を向く。

そんなやり取りが、道中何度か繰り返された。

ようやく目的地に到着した。

邇邇芸命が猿田彦に歩み寄った。

「猿田彦よ、見事な案内であった。礼を言う。そなたには、この地の案内をしてもらいたい。しばらく、我らと共に居てくれぬか」

「畏まりました」

猿田彦が頭を下げる。

こうして、猿田彦は一行と共に行動することになった。

それから数日が経った。

猿田彦は誠実に案内役を務めた。土地の説明、人々との交渉、危険の察知——全てにおいて彼の存在は心強かった。

そんな猿田彦の真摯な態度に天宇受売命は信頼を寄せる様になった。

猿田彦は思う。この異形の身で、あんな美しい女神が自分を受け入れるはずがない。せめて、友として傍にいられれば——


ある夜、邇邇芸命が天宇受売命を呼んだ。

「天宇受売命、少し話がある」

「はい、何でしょうか」

「そなた、猿田彦のことをどう思う」

「誠実な方かと」

「なるほど」

考え込む様な様子を見せる邇邇芸命であったが

「わかった。後ほど二人に話したいことがある」

それきり、瓊瓊杵命は黙り込む。


そして数日後、瓊瓊杵命は天津国から同行した5柱の神と猿田彦を呼び出した。

邇邇芸命は、確認するように天児屋命と布刀玉命を見回してから言葉を発した。

「猿田彦。そなたはこの地に通じている」

「天宇受売。そなたは場を治め、人を和らげる」

「二人が協力して我が御代を支えてくれたら私は心強いのだが」


猿田彦は、天宇受売を見つめ尋ねる。

「宜しいのでしょうか」

天宇受売は答える。

「宜しいのではないでしょうか」


以後、天宇受売は猿女君と称され、

伊勢の地は二人に委ねられた。


二人の子孫たちは宮廷の儀式で歌舞を司る事になるのだがそれはまた別のお話。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

古事記恋歌〜猿田彦の章 たけのはら @dandelion0516

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る