4.去
「もしもし、絵美さん? 裕樹の部屋の整理は進んでいるかしら」
「すみません。何かとバタバタしていて、なかなか手がつけられないんです」
「あなたも忙しいと思うけど、こっちも余裕がないの」
「ええ、わかっています」
「本当にわかっているのかしら。もし必要なら、私が行ってもいいのよ……」
「いえ、こちらでやりますから。すみません」
電話を切ると、絵美はわざとらしくため息をついた。義母からの催促は三回目だった。
手続きに必要な書類を集めてから、絵美は一度も裕樹の部屋に足を踏み入れなかった。部屋の掃除を殆ど任されることがなかったために、必要なことだとはいえ立ち入るのは気が引けたのだ。
しかし、段々と嫌気がさしてきた。実際遺品整理を先送りにしている自覚はあった。単純に気が進まないと思っていたが、裕樹の死に直面したくないのも理由としてあるのかもしれない。そうだとしたら、一刻も早く取り掛かって暗い悲しみの中に沈んでいきたかった。
絵美は裕樹の部屋の前で躊躇いを覚えながらドアをノックする。すぐにそんな必要などないのだと気がついたが、少し間を置いてから部屋に入った。
改めて見ると、部屋の中は思いの外散らかっていた。机に積まれた書類は角が揃っておらず、その中にリングファイルが挟まっているせいで斜めになっている。壁にはシュルレアリスムと思われる複製画が三つ、その他にも額に入ったモノクロ写真がいくつも飾られていた。本棚には分厚い技術書が立ち並び、上段から中段には翻訳された小説や哲学書が連なっている。
絵美は一体どこから手をつけていくべきだろうかと途方に暮れた。雑貨の類は置かれていなかったが、とにかく物が多い。何が必要で何が必要でないのか、その基準をどこに置くべきなのか……。
しばらく見回した後、まずは部屋の中にあるものを確認していくことにした。
最初に机の上を見た。閉じたノートの上に黒のボールペンが置かれており、書類の山が両脇に聳え立っている。表紙に何も書かれていないノートを開くため、絵美はボールペンを除けた。
ぱらぱらと捲ってみると、どうやら仕事上の細かなメモがまとめられているようだ。去年の八月から始まっており、私的なことは一つとして書かれていない。日付は進んでいく、文量に極端な増減はなく、殆どは十行以内に収まっている。
ねじれたような不恰好な字を見て、裕樹はこういう字を書く人だったのか、しかしそれが昔からそうだったのか、あるいは変わったのか、記憶と照らし合わせることが出来ないと気がついて申し訳なく思った。夫婦の気楽さを「空気のような存在」と形容しながら、自身の無関心を正当化する言い訳として使っていたような気がした。
絵美は筆跡をなぞりながら、過去の思い出に引きずられ始めている体に鞭を打って、左右に積み上げられた紙の山を崩していった。仕事に関するもの、本のコピー、殴り書きされた数字の群れ、美術展のチラシ……。そうしていると机の上では足らなくなり、絵美は書類を傷だらけのフローリングの上に置いた。木目柄のチェアマットの隅には糸のような埃がついている。
絵美は手を止めて床を見た。積まれた本の底にまとわりついているものやベッドの下に潜り込んだ埃があった。空気中に混ざり始めているのを見て、絵美は鼻の奥にかゆみを覚えてくしゃみをした。押さえた手のひらに透明の液が飛び散る。
ベッドフレームに置かれたティッシュで拭うと、絵美は窓に指を伸ばした。低い室温に悴んでいるのか、赤く染まり始めている。窓を開けると、絵美は「よし」と声に出した。部屋に冴えた空気が入り込んで、風を受けた埃は舞い上がる。次第に澄んでいくのが判った。裕樹の部屋で、冬が匂い立つ。
次の書類を確認しようと腰を下ろした時、絵美の体が急に動いた。角が破れたメモに触れようと伸ばした指は宙を切りながら素早く窓を閉めて見せた。あまりの勢いに残響があった。しばらくすると、それも止んだ。
絵美はよろよろと床にへたり込んだ。何が起こったのか判らなかった。全身が大きく震えて止まらない。絵美は自身を抱くようにして二の腕をさすった。混乱する精神を追い越して体は振動を続ける。何かを訴えるように、何かの来訪を告げるように。
絵美は今日までのことを思い返した。目を覚まし、朝ご飯を食べ、食器を洗い、うたた寝の合間に何かの夢を見て、洗濯をする。義母の電話を憂鬱に感じながら、裕樹の部屋に足を踏み入れた。大きくは変わらない日々だったはずだ。
それでも、絵美は自身が裕樹の死から逃げていた痕跡を見つけられる。一人分の朝食を口にしながら見た殺人事件のニュース、夢の中に裕樹が出てこなかったことや未亡人という言葉について考えた記憶が甦る。回した洗濯機の音に耳を塞ぐため、流した音楽が鳴り始める。今思えば、あのプレイリストだって傷心を癒すような音色をしていると、気がつきながら聴いていた。頭の中で動く絵美の姿は、着古したカーディガンを身につけているせいか、やけに年老いて見えた。
天井を見上げる。日没が近い、部屋が暗く沈んでいく。
回想が途切れると、絵美はここで思索に耽っている裕樹の背中が見えるような気がして戸惑った。肘掛けがついた深緑色のデスクチェアで、ボールペンでこめかみを押しながら悩んでいる様子が、見たこともないのに思い浮かんだ。絵美はそういうことを初めて考えている自分が恐ろしかった。考えたくないと思うほど、そのイメージは輪郭を帯びていく。どうして。絵美は問いかける。どうして、ここにいないの。返事はない。冬の残り香がきつく立ち込める。涙が滲んだ。薄まっていく愛しい人の匂いが恋しかった。たったそれだけのことだったのだと今更気がついた。
主が不在の書斎で、無関係な自身の体が立てる衣擦れ音が耳につく。心臓が音を立てる。ドクドクと嫌な音を立てる。絵美はあまりの苦しさに背を丸めて泣いた。この部屋に残された微かな匂いにしがみついて、何も食べずに待ち続けたかった。そしていつか真白な骨になって、裕樹に会いに行きたかった。彼のいる向こう側に、私も行きたかった。
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