2.招

 紗里と出かけるようになったのは、絵美の夫である裕樹が亡くなったことがきっかけだった。

 裕樹は中小機械メーカーの自社製品の点検やメンテナンスを行う修理工として働いていた。日夜を問わず工場を行き来し、夜中に呼び出されることも少なくなかったが、何一つ文句を言わない寡黙さがあった。油の匂いが染みついた作業着の下にはやわらかな弛みがあり、その皮膚からは張り詰めたような金属の苦さが匂っていた。酒も煙草もギャンブルもせず、日々の楽しみといえば自室に篭って仕事に関する勉強をしたり、読書に耽ったり、時には絵美を連れ立って美術館に行ったり……。

 何年も生活を共にしていた二人の間に、これといった会話はなかった。だからといって気まずさもなかった。別々の寝室で眠り、目を覚まし、一緒に食事を摂る。朝はご飯がいいという言葉を受けて作られた粗末な和定食を何も言わずに飲み下していく裕樹は、いつもと同じ低声で「ごちそうさま」と言い、席を立った。跳ねた寝癖ですら、見慣れた形をしていた。

 作業着に身を包み、安全靴の紐を硬く結んだ後「今日は夕飯いらないから」と言って、「じゃあ」と玄関のドアを開けた。それが絵美の見た、最後の後ろ姿だった。

 裕樹を見送り、絵美もまたいつものように夫婦茶碗を洗い、朝のワイドショーを見た。雪が積もった町の風景が映し出され、それがクリスマスのグルメ特集に続いていく。彩りのよいケーキだけでなく、限定スイーツも多く紹介されており、今年こそは何かを予約しようとメモを残す。

 スポーツの話題に切り替わると、絵美はソファーに寝そべってうたた寝を始めた。念のため三十分後に設定したアラームは、それより前に振動した。絵美は何の予感も覚えなかった。知らない番号であったのに出たのは、まだ体が眠気に引きずられていたせいかもしれない。

 裕樹は七時半に出社し、業務開始直後に倒れたという話だった。会社にいたことが幸いと言えるかもしれない。絵美は急いで病院に駆けつけたが、すでに裕樹の体は冷たくなっていた。医者の説明を受けながら、絵美は夢を見ているような気がした。そして、それは悪夢とは程遠いやわらかさに満ちていると思った。重たげな瞼に覆われた瞳の奥で、裕樹が何を思って暮らしてきたのか、今では知る術もない。享年三十二歳、くも膜下出血による突然死だった。

 絵美と裕樹は大学の同期であったこともあり、葬儀には共通の友人も多く駆けつけた。何の実感もなかった。礼服を着て、早すぎる死を嘆いている参列者の中に裕樹の姿を見つけられるような気さえしていた。

 暖色のライトに照らされた式場の中で、義父母は気が狂ったように泣き続けた。誰の言葉も受け入れまいとするような激しさだった。柩の中の裕樹の死顔はきれいだった。薄く施された化粧のおかげなのか、病院で見た時よりも顔色が明るく見えた。それでも、魂というものがあるのなら、それはもうここにはないのだろうと絵美は思った。名前を呼ばれ、焼香台の前で手を合わせる。抜け殻なのだ。絵美は思う。香をつまみ、炭の上に落とすと小さく煙が上がった。ここにあるのは、ただの抜け殻なのだ。席に戻ると、人前に出た緊張がほぐれて息をついた。涙の予感さえなかった。

 裕樹の四歳下の妹である紗里が声をかけてきたのは、葬儀が終わって後飾り祭壇を設置した後のことだ。裕樹の両親は悲しみの尾を見せない絵美のことを、内心良く思っていなかった。妄想に過ぎないとわかっていても、妻である絵美に何かしらの落ち度があったのではないかと勘繰り始めていた。そういう不穏な気配をいち早く察知したのが紗里だった。

「絵美さん、ちょっと外の空気でも吸いに行きましょう」

 数回しか訪れたことのない義実家を出ると、二人は近くのコンビニまで歩き始めた。絵美は何を話せばいいのか分からず、一軒家のひとつひとつに目を遣りながら、そこに住む人の生活を思い描こうとしていた。どんな部屋に、どんな人がいて、どんなものを食べて、何を考えて暮らしているのか……。半開きになったくちびるから、吐き出される息がもやのように漂う。

「慌ただしいものですね、お葬式って」

 紗里はそう言って、黒いバッグから煙草を取り出して火をつける。本当ですね、絵美は相槌を打ったが、何となく居心地が悪い。

「これからたくさんの手続きを済ませて兄の存在を消していくと思うと、この忙しさは続くのでしょうね」

 絵美はそれらを淡々とこなしていく自身の姿を容易に想像することができた。喪服に染みついた線香の匂いを、コートを着ているのに嗅ぎつけてしまう。

「昔から兄はいつでも最悪のケースを想定するべきだと言っていました。私たちを見て、今頃向こうで笑っているのかな」

 絵美は黙っていた。向こうとは一体どこだろうと咄嗟に思って、あの世のことだと考えつく。思い浮かんだだけで、それ以上の意味を持たない空疎な言葉だ。

 少し間があいた。紗里は立て続けに三吸いした後で、ふと思いついたように「絵美さん」と目を向けた。

「海に行きませんか」

「海?」

 絵美は予想外の誘いに、思わず紗里を見た。紗里は少しだけ表情を崩して言葉を続けた。

「私、ビーチコーミングが趣味なんです。案外面白いんですよ」

「ビーチコーミング?」

 絵美が問いかけると、今度は楽しそうに笑いながら答えた。

「海に流れ着いたものを集めるんです。漂流物っていうんですかね、簡単に言えば宝探しみたいなものです。この時期は、ちょっと寒いけど」

 ビーチコーミング、絵美はもう一度言葉を繰り返した。久しく海には行っていなかった。体がベタつくのが嫌いなせいだったが、今ではその感覚も遠かった。絵美は想像ができないことをやってみるのは良いことかもしれないと思った。裕樹の死を、自身が全く予期していなかったことが脳裡を過る。

「気が向いた時でいいので、息抜きに」

 そう言って、紗里は携帯用灰皿に吸い殻を押し込んだ。絵美は一度だけ頷く。前を見ると、コンビニの看板が少し先に見えた。

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