【第二章:眠れる口】


 その最後の曲がり角で、俺は『それ』を見た。


 壁だ。

 一見すると、それはありふれた錆びついた鉄板の壁に過ぎない。


 だが、その右端が極めて細く裂けていた。指一本がようやく入るかどうかの隙間だ。

 それは金属疲労で自然に割れたものじゃない――内側の縁には引きちぎられた配線の残骸と、高熱で焼き切られた後に凝固した溶解痕が残っている。


 つまり、こういうことだ。

 これはつい最近、何者かによって「焼き開けられた」入り口だということ。


 俺はしゃがみ込み、腰のツールポーチから携帯用の探針プローブを取り出すと、慎重に隙間へと差し込んだ。

 風はない。

 だが、そんなことは重要じゃない。重要なのは、探針が伝えてきた手応えだ――裂け目の向こう側に、地図には存在しない空洞が隠されている。


 もしこんな場所に未探索の、あるいは補修されていない空間があれば、村のベテランたちがとっくに封鎖しているはずだ。しかし今、そこはまるで発見されるのを辛抱強く待っていたかのように、静かに口を開けている。


 なぜ、入りたいと思ったのか?

 自分でもよく分からない。

 たぶん、そこがあまりにも静かだったからだ。


 静かすぎる……『した』の世界らしくないほどに。

 警報音も、換気扇の轟音も、旧式バルブが振動するあの低いノイズもない。


 目の前にあるこの裂け目は、まるで「眠っている口」のようだ。

 何も語らず、拒絶もしない。


 俺は背中のバックパックのベルトを一段階きつく締め、装備のチェックを始めた。


 フィルター管、二本。確認。

 包帯一巻、確認。

 「心灯ハート・ランプ」と発電スティック、状態良好。その他の探索道具も問題なし。


 そして最後に、胸に下げた「信号儀シグナル・ペンダント」――親父の形見だ。

 不規則なビープ音を間欠的に鳴らし、永遠に再生できない破損した音声データが入っているだけのガラクタだが、俺にとっては唯一のお守りだった。


 俺は心灯を最弱モードに設定し、発電スティックを口に咥える。


「ブゥゥゥン……」


 微弱な電流音が鳴り、黄緑色の幽鬼のような光が、小さな太陽となって俺の手の甲を照らす。慣れ親しんだ低周波の振動が歯から骨へと伝わり、少し早鐘を打っていた心臓を冷静なリズムへと押し戻していく。


 息を吸う。

 俺は体の半分を、その裂け目へとねじ込んだ。


 鉄板の粗い断面がジャケットを擦る。氷水のように冷たい。

 俺は肩をすぼめ、少しずつ奥へと体を押し進める。背後にあった通路の光が徐々に遠ざかり、視界には俺と、前方の闇だけが残された。


 通路脇の内壁を、コンコン、と叩いてみる。

 ボフッ。

 音が瞬時に乾いた布に吸い込まれたように消え、反響は何もない。


 俺は一秒立ち止まり、心灯の角度を調整した。

 光の柱が狭い金属の内壁を舐める。切断されたケーブル、釘のように並んだ記録スロット、そして黒く焦げた溶接痕が浮かび上がった。空気は刺すように冷たいが、そこには独特の焦げ臭さが混じっていた。何かひどく苦い、ここで何かが焼き付いたような臭いだ。


 さらに二歩、這って進む。


 肩甲骨が鋼材と鋼材の隙間をギリギリで通り抜ける。

 心灯の光が、不規則に明滅した。


 その時だ。ごく僅かな気流が、俺の頬を撫でたのは。


 俺たちが知っている換気システムのような風じゃない。金属ファンの回転音もなく、ただ言葉にできない温度の変化だけがある。

 まるでドアの隙間の向こうに誰かが隠れていて、そっと俺のうなじに息を吹きかけたような感覚。


『もっと深い場所へは行くな……』


 母さんの警告の声が、唐突に脳内で響いた。


 俺は発電スティックを強く噛み締め、歯に力を込めることで恐怖をねじ伏せた。

 理性は引き返すべきだと叫んでいる。だがそれ以上に俺は知っていた――こういう静かで隠された場所は、一度見逃せば、二度目の来訪者を待ってはくれないということを。


 深く息を吸い込む。

 俺は闇の最深部へと、あと身体一つ分、滑り込んだ。


 背後の世界が、金属の隙間によってゆっくりと閉ざされていく。

 前方には、俺の心灯と、俺の呼吸音、そしてあの風のようで風でない音だけが残る。


 それは遥か遠い深淵で、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。

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