【第三章:黒い風】


中でどれくらい這い回っていただろうか。

 心灯がすでに二回点滅した――つまり、一つの標準時サイクルが過ぎたということだ。


 裂け目の向こうの空間は、通路というより、暴力的に解体された生物の内臓のようだった。

 剥き出しの配線が血管のように壁中を這い回り、壁面は赤錆に侵食され尽くしている。床には砕けたコアの欠片や機械の殻が散乱し、一歩進むたびに誰かの廃墟となった記憶を踏みつけるような、神経に障る音が響いた。


 ようやく、道が行き止まりになった。


 前に壁はない。

 その代わりにあったのは――『黒い風』だ。


 それは単なる暗闇ではない。質量を持った、実体のある風。

 それが真下から絶え間なく吹き上げ、強烈な気圧で配管全体が微かに共振し、震えている。


 俺はプラットホームの縁に立った。

 錆びた手すりは半分しか残っていない。金属の棒がありえない方向に捻じ曲げられ、飴細工のようになっている。一目で人力によるものではないと分かった。

 手すりの外は、底の知れない深い井戸だ。


 風には、焦げたような甘い匂いと湿気が混じっている。それは『した』では決して嗅いだことのない臭いだ。俺は無意識に一歩後ずさった。


 しゃがみ込み、心灯を胸元に固定して、角度を下げて井戸の底を覗き込もうとする。

 光の柱は、射出された瞬間に消失した。

 光が、飲み込まれたのだ。


 その時だった――


 カツッ。


 極めて小さな、乾いた音。

 俺は視線を落とし、猛烈に瞳孔を収縮させた。


 探査用バッグに掛けていたはずの「信号儀シグナル・ペンダント」の紐が、いつの間にか擦り切れていたのだ。

 それは俺の手元を離れ、プラットホームの縁へと滑っていく。


 ただの探知機じゃない。

 あれは親父が残した旧いデバイスだ。あれの中にしか残っていない、俺と親父を繋ぐ唯一の絆だ。


「待っ――」


 脳よりも早く、身体が反応していた。

 俺は身を乗り出し、体を捻って、手を伸ばした。


 指先が冷たい金属の筐体に触れようとした、その瞬間――


 ゴオォォォッ!!


 奈落の底から、猛烈な気流が爆発的に吹き上がった。

 その瞬間、俺は軸のぶれた独楽のようにバランスを失い、足場が完全に消え失せた。


 突き出した手。

 掴んだのは、虚空だけ。


 バッグのベルトが強く締まり、何かの突起に引っかかって俺の胸を強打したかと思うと、次の瞬間には――


 ブチリ。


 千切れた。


 俺はそのまま、落ちた。


 風が強すぎて目が開けられない。

 墜落には終わりがないように思えた。俺は闇の中で何度も回転し、重力を失った雑巾のように弄ばれる。


 頭部が、何かに激しく打ち付けられた。

 鈍い音。

 激痛は一瞬しか続かなかった。


 意識は断線したケーブルのように、瞬時に途切れた。

 世界が、闇に沈んだ。

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