3話 それぞれの朝、重なる足跡
カーテンの隙間から、薄い金色の光が差し込んでいた。
秋休み初日――という言葉の響きは、軽い。けれど瀬戸悠真の身体は、その軽さに乗れないまま、ベッドの上でぼんやりと浮いていた。
瞼の裏に、何かが貼りついている。眠気ではなく、重さだ。起きる理由がない日に起きるときの、あの曖昧な引力。二度寝を許されているはずなのに、許されること自体が落ち着かない。
時計を見る気力もなく、悠真は天井の染みを眺めた。昔からあったのか、最近できたのか分からない、小さな影。そこに目を合わせていると、頭の中が静かになる。
――トン。
玄関の方で音がした。続いて、廊下を歩く足音。父の足音だ。規則正しくて、少し急いでいて、そして……遠慮がある。
この家に戻ってきてから、父の足音にはいつも遠慮が混じっていた。息子の部屋の前を通るときだけ、ほんのわずかに軽くなる。なるべく音を立てないように、気配を消すように。
離婚してから、父のそういう気遣いが増えた。
悠真は息を吸い、「行ってらっしゃい」と言うつもりで喉を鳴らした。
言葉は、喉の手前まで来て止まった。
出そうとして、出さなかった。理由は、ひとつじゃない。寝起きで声が出ない、というのもある。気恥ずかしさもある。けれど一番は――言ったら、父が振り向いてくれる気がしたからだ。
振り向いて、笑って、「行ってくる」って言ってくれる気がしたからだ。
その一往復が、今の自分には少し怖い。取り戻せるものがあるかもしれないという期待が、怖い。期待は、裏切られる前提で生まれて、裏切られるときだけ鋭く痛い。
だから悠真は、何も言わなかった。
父の足音が玄関へ向かう。ドアの鍵を回す金属音。扉が開いて、閉まる。
――ガチャ。
その音が、家の中の空気を一段冷たくした気がした。父が出ていっただけなのに、居間と台所が、急に広くなったみたいに感じる。
悠真は布団をかぶり直しかけて、やめた。寝てしまえば楽だ。けれど、楽でいると、頭の中で勝手に映像が流れ始める。母の声、母の笑顔、知らない男の影。父が無理に笑っていた横顔。
嫌な映像が出てくるくらいなら、起きていた方がいい。
身体を起こして、床に足をつける。冷たい。秋の朝の冷たさは、眠気を引き剥がすのがうまい。
廊下へ出ると、居間のテーブルの上に小さな紙が置かれていた。父の字だ。
『昼は冷蔵庫のハムと卵、使っていい。帰りは遅くなる。何かあったら連絡して』
その紙の横に、スマホが置いてある。父が置き忘れたのではない。わざとだ。父はこの数か月、言葉の代わりに文字を置くようになった。会話の代わりに、アプリのメッセージで済ませるようになった。
――お互いに楽なんだろうな。
そう思ってしまって、胸が少しだけ疼いた。薄い罪悪感。けれど、それは罪悪感というより、面倒を避ける自分を正当化するための痛みの形をした飾りに近い。
キッチンへ行って、コップに水を注いで飲む。冷水が喉を通る。次に、袋入りの食パンを一枚取り出して、袋の口を留めるクリップを外す。
トースターを使うのは面倒だった。パンは冷たいまま齧った。口の中で、ぼそぼそとほどける。味はない。でも、味がない方がいい気がした。味があると、何かを「おいしい」と感じたことが、誰かと共有したくなる。
パンを齧りながら、ふと昨日のことが頭に浮かんだ。
――秘密基地の森。
あの森は、ここに戻ってきた瞬間から視界の端にあった。街が変わっても、そこだけは変わっていない。再開発から取り残されて、時間の流れが遅れている場所。
昨日、帰り道に見た森の塊が、胸の奥を小さく叩いた。行ってみよう、と決めたのは、勇気ではなく逃避だった。今の家、今の学校、今の自分――その現実から少しだけ離れたい。
パンを最後まで齧り終えると、悠真は手を洗って、適当に上着を羽織った。財布とスマホをポケットに入れる。鍵を手に取る。
玄関で靴を履いていると、室内が妙に静かだと気づく。テレビもついていない。誰の呼吸も聞こえない。父のいない家は、ひどく“空っぽ”だった。
鍵を回す。ドアを開ける。外の空気が入り込む。
――逃げるみたいに。
悠真は、誰にも見送られないまま、玄関の鍵を閉めた。
⸻
冬月凛花は、目が覚めた瞬間から、意識がきっぱりと立ち上がるタイプだった。
朝だ、と分かる。身体が動く。眠気が残らない。こういう性質は、小学生の頃に身についた。朝に起きられなかった日が続いたら、あの人は帰ってこないかもしれない――そんな意味のない不安が、毎朝の目覚ましになっていた時期がある。
今はもう、そんな不安はない。
それでも、凛花の朝は律儀に始まる。
カーテンを開ける。白い光が部屋に広がる。窓の外の空は高く、秋らしく澄んでいる。服を着替え、髪を整える。制服ではなく、動きやすい部屋着のまま、キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けて、卵を取り出す。フライパンに油を落とし、火をつける。湯を沸かし、味噌汁の具を切る。
包丁がまな板を叩く音は、凛花の心を整える。一定のリズム。一定の手順。世界は、自分の手の中で再現できる、と錯覚させてくれる。
背後から、足音がした。
「凛花、おはよ〜」
母――冬月恵子は、寝起きのくせに声が明るい。寝癖もきちんと直して、パジャマの上にカーディガンを羽織っている。朝の台所に漂う味噌の匂いに、うっとりしたように目を細めた。
「おはよう。味噌汁、あと五分でできる」
「うんうん、さすが〜。ねえ聞いて聞いて、昨日のお父さんがね」
来た、と凛花は思った。
母は、父の話をするのが好きだ。好きというより、“惚気たい”のだ。家族の朝に、平気で恋人みたいな話題を持ち込む。娘の前でも遠慮がない。
「昨日お父さんたらね、疲れて帰ってきたのに『君の顔を見たら元気が出た』なんて言うのよ〜。もう恥ずかしくなっちゃう」
母は自分の頬を両手で包んで、照れたように笑った。まるで少女みたいに。
凛花はフライパンを見つめたまま、深く息を吐いた。
「……お母さん、それ、包丁持ってる娘の前で言う話?」
「えっ、危ないってこと? 凛花、そんなに私のこと嫌いなの〜?」
「そういう意味じゃなくて」
凛花は包丁を置き、母を横目で見た。母はニヤニヤしている。分かっていて言っている顔だ。
「だってさ、凛花はいつも冷たいじゃない。たまには笑いなさいよ」
「笑ってる。内心で」
「内心じゃ伝わらないでしょ〜」
母は呑気だ。呑気で、温かい。だから凛花は、母の惚気にうんざりしながらも、心のどこかで安心している。
父と母は仲がいい。毎日、ちゃんと言葉を交わし、手を伸ばし合っている。家の中に“信じていいもの”があるという感覚は、凛花にとって救いだった。
ただ、救いは救いで、うるさい。
「……卵、焦げる」
「はいはい、料理長〜」
母は笑いながら、テーブルに箸を並べ始めた。
凛花は、目玉焼きを皿に滑らせ、味噌汁を椀によそった。焼いた鮭も出す。朝食の手際は良い。良いけれど、良い手際は“当たり前”になってしまって、褒められても嬉しくない。
――当たり前。
凛花はその言葉が好きだ。好きというより、安心する。未来が予測できるから。ずっと続くものだと信じられるから。
食卓に料理を並べていると、母が頬杖をついた。
「ねえ凛花、今日も行くの?」
「……行く」
「またあの場所ね。気をつけてね」
母の声は、心配というより理解だった。凛花の“ルーティン”を、母は知っている。そして、止めない。止めてしまうと、凛花が壊れることを、母は知っている。
凛花は一瞬だけ唇を引き結び、いつも通りの無表情に戻った。
「お父さん、まだ起きてこないの?」
「昨日はねえ、夜遅くまで頑張ってもらったからね」
母が楽しそうに笑う。凛花は目を閉じ、さらに深いため息をついた。
「もう……いいから食べてよ」
「はーい。凛花、ほんと大人っぽいわねえ」
母は箸を持ち、味噌汁をすすった。「おいしい」と言う。父がいる日の朝は、ここに父の声も重なる。『凛花、ありがとう』とか、『恵子、味噌汁うまい』とか。小さな会話が、食卓の空気を温める。
凛花はその光景が、好きだった。
好きだからこそ、胸の奥に“理想”が染み込んでいく。
男女は一度繋がったら、ずっと深く愛し合い続けるのが当たり前。
疲れて帰ってきたら、顔を見ただけで元気が出るくらい、当たり前。
言葉も、触れ合いも、日々の些細な確認も、当たり前。
――当たり前が、崩れるはずがない。
凛花は、そう思うことで安心してきた。
だから、凛花の中では“崩れた当たり前”が許せない。許せないというより、理解できない。理解できないものは、恐ろしい。恐ろしいものは、排除したくなる。
ふと、母の言葉が耳に入る。
「そういえばさ、凛花。最近ちょっと機嫌いいよね? 何かあった?」
「別に」
「ほんとに? なんかさ〜、目が……うん、ちょっと元気になってる」
凛花は、箸で鮭の身をほぐしながら、黙った。母は鋭いところがある。普段はぼんやりしているのに、娘の“変化”だけは見逃さない。
凛花は笑わないまま、味噌汁を口に運んだ。
「……秋だから」
「なにそれ、風情あるじゃない」
母は嬉しそうに笑った。凛花は、それ以上何も言わなかった。
口に出せない。
だって、口に出した瞬間、現実になってしまうから。
この前に起きた“偶然”――視界の端に見えた横顔。似ている気がした輪郭。胸の奥が無遠慮に叩かれた感覚。それを言葉にしたら、母は「もしかして悠真くん?」とでも言ってしまうかもしれない。
その名前を聞いたら、凛花の中の何かが止まらなくなる。
止まらないものは、怖い。
怖いのに、止まってほしくない。
凛花は食器を片付け、手を洗った。母は「行ってらっしゃい」と、いつも通りの温かい声をくれる。
凛花は玄関で靴を履きながら、小さく言った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。……またあの場所ね。気をつけてね」
背中にその声を受けて、凛花は外へ出た。鍵を閉める音が、穏やかに響く。
見送られる音は、温かい。
見送られるという事実が、凛花の足取りを軽くする。軽くするけれど、目的地は変わらない。凛花にとって、森へ行くことは“いつもの確認”だった。
あの森に行けば、世界が壊れていないと確かめられる。
壊れていないと信じられる。
そして――もしも、壊れていないなら。
いつかの再会も、当たり前に起こるはずだと。
凛花は、そう信じたい。
⸻
悠真の足取りは、軽くなかった。
家を出てからしばらく、どこへ行けばいいのか分からなくなる瞬間が何度もあった。昔は当たり前に歩いていた道のはずなのに、角の店が変わっている。看板が変わっている。塀が新しくなっている。記憶の中の地図が、現実と擦れている。
それが、苛立ちになる前に虚しさになった。
――俺はここに戻ってきたのに、ここは俺を待ってなかった。
そんな当然の事実が、刺さる。
自分がいない間も、町は日常を続けていた。人は笑って、泣いて、恋して、別れて、結婚して、子どもを育てて、死んでいった。自分の不在なんて、誰も困らない。
だから、あの森だけが異質だった。
町の端。舗装が途切れ、雑草が増え、空気の匂いが変わる。車の音が遠ざかり、鳥の声が近づく。
秘密基地の森は、そこにあった。
悠真は、森の入口の手前で足を止めた。昔はもっと気軽に入っていた。虫も汚れも気にしなかった。今は、靴の汚れすら気になる。そんなことが、妙に大人になった気がして、気分が悪い。
自分が大人になったのではなく、臆病になっただけなのに。
悠真は息を吐き、森へ一歩踏み込んだ。
足元の枯れ葉が、乾いた音を立てる。木の葉の間から、光が斑に落ちる。空気が少し冷たい。湿った土の匂いが、胸の奥の何かをくすぐる。
――ここだけは、昔のままだ。
そう思った瞬間、逆に怖くなった。
昔のままなら、昔の自分も引きずり出される。引きずり出されたら、今の自分が保っている“冷めた視点”が崩れるかもしれない。崩れたら、また痛い思いをする。
悠真は、なるべく考えないように足を進めた。
逃げるために来たのに、逃げ先で過去に捕まる。そんな間抜けなことはしたくない。
⸻
凛花の足取りは、迷いがなかった。
家から森までの道は、凛花の身体に刻まれている。学校へ行く道よりも、買い物へ行く道よりも、よほど正確に。
同じ角を曲がり、同じ電柱の影を踏み、同じ空き地の前を通る。秋の風が髪を揺らす。凛花は髪を押さえもしない。揺れてもいい。乱れてもいい。森へ向かうこの時間だけは、凛花にとって“素”に近い。
それでも、心の中は静かではなかった。
ついこの間のことが、頭の中で何度も再生される。昇降口のざわめき。遠巻きの視線。自分が告白を切り捨てたときの空気の切れ方。あの場にいた誰かの横顔。
似ていた。
似ている気がしただけなのに、心が勝手に結論を急ぐ。
――戻ってきたの?
――本当に?
――今度は、消えない?
凛花は唇を噛んだ。痛みが、思考を現実に戻す。
もしも、もしも本当にあの人なら。
凛花は、どうする。
抱きしめる? 泣く? 責める? 笑う?
そんな綺麗な選択肢を、凛花の中のどこかが嘲笑う。
違う。
凛花がしたいのは――確認だ。
そこにいるかどうか。離れないかどうか。自分の視界の中に、ちゃんと置けるかどうか。置いたら、二度と落とさないかどうか。
凛花は歩きながら、自分の胸の奥にある“理想”を撫でた。
当たり前は続く。
繋がったら、ずっと深いまま。
好きなら、守る。
守るなら、手放さない。
理想は、時々、刃になる。
凛花はそれを自覚している。でも、自覚しているからといって、刃を捨てられるわけではない。刃は、自分を守る。刃がなければ、また世界が終わる。
あの小学生の終わり、世界が終わったとき、凛花は何も持っていなかった。
ただ祈って、ただ待って、ただ壊れた。
もう二度と、あの壊れ方はしたくない。
凛花は、森の入口が見えてきたところで、息を整えた。
胸の鼓動が、少しだけ速い。
それが嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。
⸻
悠真は森の奥へ向かいながら、ふと足元に“新しい跡”があることに気づいた。
枯れ葉が不自然に踏み固められている。土が少し露出している。最近誰かが通った道。
この森は、子どもの遊び場ではなくなったはずだ。町の子どもたちは今、もっと安全な公園で遊ぶ。ここは荒れていて、危なくて、遠い。
なのに。
道がある。
悠真は、その道を辿った。理由は単純だ。自分で藪をかき分けるのが面倒だったから。過去に向かって歩くのに、効率を選ぶのはおかしいけれど、悠真はそのおかしさに気づかないふりをした。
歩くほど、踏み跡ははっきりする。誰かが定期的に通っている。
胸の奥が、小さくざわついた。
ここを、誰かが“今も”大事にしている?
――そんなこと、あるわけない。
悠真は自分に言い聞かせる。期待をしたくない。期待は、勝手に膨らんで勝手に裏切られる。
けれど足は、踏み跡を辿るのをやめなかった。
あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている 風莉 @Notes871
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