2話 秋休みと、独りの食卓

 昼休みの喧騒は、教室という箱をいったん別の生き物に変える。椅子が引かれる音、弁当箱の蓋が外れる音、購買のパンの袋が擦れる音。誰かの笑い声が波みたいに重なり、窓から入る光さえも、授業中とは違う角度で揺れて見えた。


 瀬戸悠真はその波の外側にいるのが、もう当たり前になりかけていた。転校してきて数日。人の名前と顔の一致がようやく追いついたくらいで、輪に入る努力はしていない。努力をしなければ、失敗もしない。失敗しなければ、余計な傷も増えない。


 ――合理的だ。


 そうやって、自分の心をうまく折り畳んだまま、パンの袋を開ける。購買の焼きそばパン。噛むと甘いソースの匂いが口に広がる。味は悪くない。だが、胃の奥が「これでいい」と納得するような温度はない。


「瀬戸ー!」


 背後から、やけに元気な声が飛んだ。椅子が、床を少し乱暴に擦って止まる音。


 振り向くより先に、視界の端に顔が入り込む。


「やっぱパンか。お前、昨日もパンだったろ」


 佐藤裕太。お調子者で社交的、という単語をそのまま人にしたような男だった。髪は軽く立てて、目つきは悪くないのに落ち着きがない。陽の当たる場所に勝手に座ってしまうタイプの人間。


 こういう相手は、距離を取れば面倒が減る――はずなのに、裕太は距離の概念そのものを知らないみたいに近かった。


「家で弁当作るほど余裕ない」


「お、じゃあ俺の弁当半分やるよ。母ちゃんの弁当、量多すぎてさ」


「いい。いらない」


「遠慮すんなって。遠慮するやつほど後で倒れるんだぞ?」


 その理屈は意味が分からない。だが、裕太が冗談で言っているのは伝わった。伝わってしまうから、笑うべきなのかと迷う。


 悠真は結局、口角をほんの少しだけ上げた。笑ったというより、反射に近い。


「ほら、笑った。瀬戸、意外といけるじゃん」


「何が」


「クールぶってるけど、普通に人間」


 普通に人間。その言葉が、薄い刃みたいに引っかかった。


 ――普通に人間、だったら。


 母の浮気を知って、家の空気が壊れて、父の背中が一気に小さくなって、笑い声が「演技」に聞こえるようになっても。普通に人間なら、誰かの好意を疑わずに受け取れたのだろうか。


 裕太はそんなことに気づかない。気づかないまま、机の端に自分の弁当箱を置いて、勝手に蓋を開けた。白いご飯の上に、唐揚げと卵焼きと、茶色い何か――たぶんきんぴら――が並んでいる。


「見ろよ。唐揚げ、今日やたら多い。母ちゃん機嫌いい」


 機嫌、という単語がまた引っかかる。家庭の話が、ただの情報として流れていく。


「瀬戸さ、放課後どう? 駅前のゲーセン行こうぜ。千白のゲーセン意外とやるぞ」


「今日は無理。家の片付けある」


 口から出た言い訳は、用意していたみたいに滑らかだった。実際、片付けはある。段ボールはまだ部屋に積まれているし、父は家事に慣れていない。自分が動かなければ家が回らない、という現実がすでにある。


 けれど本音は別だ。放課後、誰かと遊ぶほどの余裕がない。余裕というより、踏み込む気力がない。友達は嫌いではない。でも、一定の距離が必要だ。距離があれば、手が届かないぶん、壊されにくい。


「また片付けかよ。引っ越しってだるいよな」


 裕太は軽く言って、唐揚げを口に放り込んだ。


「じゃあさ、秋休み入ったらどっか行こうぜ。お前、暇だろ?」


 秋休み――その言葉で、悠真の動きが一瞬止まった。


「秋休み?」


「え、知らないの? 今週末から三日くらい休みあるやつ。千白高校、毎年あるんだよ。文化祭の前に一回休ませてくれる。神」


 そういえば、担任がそんなことを言っていた気がする。転校の手続きと引っ越しで頭が詰まっていて、季節の感覚が消えていた。


 秋。休み。季節感。


 自分が「秋休み」という単語すら忘れていたことに、逆に驚く。離婚騒動と引っ越しが、生活のカレンダーを全部塗りつぶしていた。


「へえ」


「へえ、じゃねーって。みんな予定立ててんぞ? 海行くとか、映画とか、カラオケとか。瀬戸もさ、何かやろうぜ」


 裕太の目はまっすぐで、眩しいほどだ。悪意がない。無邪気で、無責任で、だからこそ刺さる。


「考えとく」


「絶対考えないやつの返事!」


 裕太が笑う。周りの男子も釣られて笑う。教室の空気は、これが日常だと言わんばかりに軽い。


 悠真だけが、その軽さの外側にいることを自覚してしまう。


 ――取り残されてる。


 不思議と寂しさはなかった。むしろ、取り残されているほうが安全だ。輪の中に入れば、いつか輪の中で壊れる。


 そうやって自分を納得させながら、焼きそばパンの最後の一口を噛みしめた。



 放課後のホームルーム。担任が前に立って、プリントを配り始める。紙の束が机の上に落ちる音が連鎖して、教室のざわめきが少しずつ落ち着いた。


「えー、来週の予定だが……秋休みが入る。今週末から三日。プリントに書いてある通りだ」


 担任の言葉に、教室が一気に活気づく。


「うお、やっぱ来た!」

「三連休じゃん!」

「神!」

「部活ないよな? 顧問、余計なこと言うなよ!」


 笑い声と、机を叩く音。誰かが早速スマホを取り出して予定を確認しようとして、担任に注意される。


 悠真はプリントを眺める。確かに書いてある。秋休み。休校日。文化祭準備期間。文字として並ぶと、休みはちゃんと現実になってくる。


 休み。


 休みという言葉は、本来なら嬉しいもののはずだ。だが、胸の奥が少しだけ重くなった。休みは、空白を作る。空白は、考えなくていいことを考えさせる。家庭のこと、母のこと、父のこと、自分のこれから。


 周囲が休みの計画で盛り上がるほど、自分の空白が強調される。


「瀬戸、秋休み何すんの?」


 また裕太が聞いてくる。質問の仕方が、悪気がないぶんだけ逃げ道がない。


「……片付け」


「片付けだけで三日使うわけ?」


「使うかも」


「うわ、真面目だな。じゃあ二日目だけでもどっか行こうぜ」


 しつこい。けれど、そのしつこさが嫌いになれないのも、また面倒だった。


「考えとく」


「だから絶対考えないって!」


 裕太が笑い、また教室が笑う。その輪の外側で、悠真はプリントを折り畳んで鞄に入れた。


 秋休みが現実になった瞬間、胸の奥に小さな穴が開いたみたいだった。穴は、静かに風を吸い始める。吸い込まれるのは、過去の匂いだ。


 あの森。秘密基地。


 まだ、その穴の正体に名前をつけたくなくて、悠真は目を伏せた。



 家に帰ると、玄関の空気がひんやりしていた。昼間の日差しが嘘みたいに、生活の匂いが薄い。靴を脱ぐ音が、妙に大きく響く。


「……ただいま」


 言ってみたが、返事はない。もちろんだ。父は工場勤務で、最近は残業が続いている。転校の手続きや引っ越しの段取りで休みを取ったぶん、埋め合わせのように働いているのもあるだろう。


 台所のテーブルに、白い紙が置いてあった。


『悠真へ

 今日も遅くなる。冷蔵庫に飲み物入れてある。晩飯は無理しないで。 

 健一』


 短い文字。父の字は、力が入りすぎて少し角ばっている。人の良さが出る字だ、と思う。思った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。


 父は気を遣っている。自分に。たぶん、母がいなくなったことの埋め合わせをしようとしている。あるいは、息子をこの町に連れ戻したことへの罪悪感があるのかもしれない。


 ――本当は、父が謝る必要なんてないのに。


 悪いのは母だ。家を壊したのも、父を苦しめたのも、自分の「普通」を奪ったのも。


 それでも、父の置き手紙を見ていると、父が自分を避けるように働いているようにも感じる。家にいると、母の話題が出てしまうから。あるいは、息子の目に自分の弱さが映るのが怖いから。


 居心地の悪さがじわじわと広がる。家の中にいるのに、どこにも自分の居場所がないような感覚。


 冷蔵庫を開けると、ペットボトルの水とお茶、コンビニで買ったらしいサラダがひとつだけ入っていた。父の気遣いが、これでもかと目に見える。


 悠真は財布を手に取って、また外へ出た。



 コンビニは相変わらず明るい。光の下では、どんな感情も薄く見える。棚に並ぶ商品は等間隔で、値札は整然としている。ここには裏切りも、感情の濁りもない。あるのは、値段と、期限と、商品名だけ。


 弁当コーナーで適当に選ぶ。温めますか、と聞かれて頷く。電子レンジの「ピー」という音が、妙に安心できる。


 家へ戻り、キッチンのテーブルに弁当を置く。箸を割る音が、また大きい。父の置き手紙はそのままにして、弁当の蓋を開けた。


 湯気が少し立つ。温かいはずの匂いが、なぜか薄い。コンビニの飯は、いつも同じ匂いがする。油と、醤油と、出汁の真似事。


 悠真は一口食べて、咀嚼しながら、喉の奥が締まるのを感じた。


 ――同じ食卓。


 母は、四年も浮気を続けていたという。四年。自分が中学生の頃からだ。家族で食べた夕飯、父が笑っていた夜、母が「おかわりあるよ」と言った朝。全部、その四年の中に含まれている。


 あんな奴が。


 親の面をして。


 同じ食卓を囲んでいた。


 箸が止まる。胃の中で、何かがひっくり返る感覚がした。吐き気というほど強くはない。けれど、口の中が急に乾く。味が分からなくなる。


 ――どうして、平気な顔ができたんだ。


 母は、何度も「大丈夫?」と聞いてきた。テストの点数が悪いとき、部活で疲れているとき、風邪を引いたとき。心配する母の顔は、確かに本物に見えた。


 それが全部嘘だったのか。嘘じゃないのか。どっちにしても、結果は同じだ。母は家を壊した。父を裏切った。自分を裏切った。


 人の好意は、簡単に裏返る。


 笑顔は、簡単に別の顔になる。


 そんな当たり前を、家族という一番安全なはずの場所で学んでしまった。


 悠真は弁当をもう一口食べた。冷めた油が舌に残る。だが、その気持ち悪さが、逆に現実を固定してくれる気がした。


 誰かと食べるご飯より、一人で食べるコンビニ弁当の方が「毒が入っていない」気がする。


 ――歪んでるな。


 自分でそう思う。思うのに、心は落ち着いてしまう。ここには人の手が入っていない。誰かの感情が混ざっていない。母の笑顔の裏にあるものを想像しなくていい。


 ただ、値段分の味があるだけだ。


 食べ終える頃には、窓の外は完全に暗くなっていた。時計を見ると、まだ父が帰ってくる時間ではない。家の中の静けさが、耳に張り付く。


 食器を洗い、ゴミをまとめる。手を動かしていると、考えなくて済む。けれど、止まった瞬間、また穴が口を開ける。


 秋休み。


 三日間の空白。


 この家で、父と二人で、何を話せばいい。話さなければ、空気が重くなる。話せば、母の影が出る。どちらにしても、居心地が悪い。


 部屋に戻ると、段ボールがまだ積まれていた。開けていない箱。しまいきれていない服。生活がまだ定着していない証拠。


 机に向かい、秋休みのプリントを取り出す。日付を指でなぞる。休みは休みとして、そこに線が引かれているだけなのに、妙に怖い。


 バイトを始める気力はない。趣味を見つける気力もない。新しい人間関係を構築する気力も、当然ない。


 何もしない「空白」が怖い。


 空白は、過去を連れてくる。思い出したくないのに、思い出してしまう。母のこと、父の表情、自分の無力さ。


 ――じゃあ、空白を埋めればいい。


 埋めるもので、思い浮かぶ場所が一つだけあった。


 町の端の雑木林。再開発から取り残された森。止まった時間の象徴。小さい頃、そこだけは安全だった。


 秘密基地。


「……あの秘密基地、まだあるのかな」


 声に出してみると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。温かいというより、「昔の自分」がそこに触れた気がする。


 都会で失った「安心」を取り戻したい。そんな欲求が、無意識の底から浮かび上がってくる。


 馬鹿みたいだ、と頭は言う。今さら秘密基地なんて。高校生にもなって。けれど心は、合理性とは違う方向へ引っ張られる。


 悠真はスマホを手に取り、カレンダーを開いた。秋休み初日。


 何も予定がない日の、朝。


「……行くか」


 小さく呟いて、スマホを伏せた。決意というほど強いものではない。逃げ道を一つ確保するだけだ。空白に飲み込まれないための、仮の足場。


 ベッドに横になっても、すぐには眠れなかった。静けさが、耳の奥を撫でる。森の葉擦れの音が、幻みたいに聞こえた気がした。

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