あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている

風莉

1話 帰郷と予兆

 引っ越しの段ボールは、部屋の床を雑に埋め尽くしていた。どれも同じ茶色い箱なのに、貼られたガムテープの皺の入り方や、手書きのマジックの癖だけが妙に生々しい。


「――悠真、これ、台所の方でいいか?」


 廊下から父の声がする。瀬戸健一。返事をしようとして、口の中で言葉が引っかかった。こういうとき、「うん」とか「お願い」とか、家庭の温度を含んだ短い言葉が自然に出ていたはずなのに。


「……うん。台所で」


 結局、体温のない声になった。父は「了解」とだけ返して、また段ボールを運ぶ足音が遠ざかる。


 部屋は、かつての自分の部屋だった。小学校一年の終わりまで確かにここで暮らしていたのに、今は他人の家を借りているみたいな感覚がある。壁の色、窓の位置、押し入れの扉の木目。どれも覚えているはずなのに、記憶の中のそれらと現物の間に薄い膜が張っている。


 押し入れを開けると、埃の匂いがした。昔、ここに詰め込んでいたはずのプラスチックの玩具も、ボロボロのサッカーボールもない。代わりに、空洞だけが残っている。空洞は、思った以上に広かった。


 ――あの頃は、家が世界の中心だった。


 そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなる。家が世界の中心であったこと。そこに母がいて、父がいて、自分がいて、笑うことが当たり前だったこと。それが、今の自分にとっては、どこか遠い時代の嘘みたいに聞こえる。


 母が浮気をした、と告げられたのは数か月前だ。最初は理解できなかった。次に、理解できてしまったことが気持ち悪かった。家庭は、薄い紙みたいなものでできていて、裏側から湿気が回れば簡単に破れる。そういう現実を、勝手に知ってしまった。


 それからは、人の好意をまっすぐに見られなくなった。誰かが笑いかければ、「裏に何がある?」と考える。優しい言葉を投げられれば、「いつか撤回される」と先回りする。期待しなければ、崩れても痛くない。そんな打算が、いつの間にか呼吸みたいに身についていた。


 段ボールの中から、衣類を取り出す。畳んで、タンスにしまう。並べる順番に意味はない。ただ手を動かしていれば、頭の中が静かになる。


 窓の外には、千白町の空がある。都会の空よりも広く見えるのは、建物が低いからだ。空の下に、ほどよく発展した町の景色が広がっている。大型スーパーの看板、駅へ続く道、見慣れない新しいマンション。昔の記憶の上に、別の時間が上書きされている。


 それでも、町の端――視線を少しずらしたところに、雑木林が見えた。荒れていて、再開発から取り残された森。家々の屋根の隙間から、濃い緑の塊が、そこだけ時間が止まっているみたいに沈んでいる。


 あそこに、秘密基地があった。


 思い出せるのは、木の根元に積んだ石の輪と、拾った板切れで作った粗末なベンチ。雨の日は葉っぱの屋根が落ちてきて、二人で必死に押さえて笑った。


 ――二人。


 その単語が浮かんで、反射的に思考を切った。余計な感情が湧くのが嫌だった。自分は、ここに戻ってきただけだ。父の故郷に。壊れた家庭の後始末として。過去を拾いに来たわけじゃない。


 夜、台所で父と簡単な夕食をとった。出来合いの惣菜と、炊き立てのご飯。父は、箸の動きだけがぎこちなかった。家事が得意じゃないのが、よく分かる。けれど、その不器用さが、わざとらしくない分だけ救いにもなった。


「転校初日、明後日だっけ」


「うん」


「……無理すんなよ」


 父はそれだけ言って、湯呑みに口をつけた。たぶん、もっと言いたいことがある。母のこと、自分のこと、この町に戻ること。けれど父は、話題を掘り返さない。息子に苦しみを見せないようにしているのだと分かる。


 分かるからこそ、申し訳なさが出るはずなのに、悠真の心は、どこか乾いていた。申し訳なさも、怒りも、悲しみも、全部が薄い。感情の水量が減って、渇水警報が鳴っているみたいな。


 食器を片付け、風呂に入り、部屋に戻る。机の上に新しい制服を置いた。千白高校の紺色のブレザー。袖に指を通し、縫い目を確かめる。新品の布は、まだ自分の体温を拒むように硬い。


 教科書も並べる。国語、数学、英語、地理。どれも、内容よりも「これが明後日からの日常になる」という事実だけが重い。


 目立たず、静かに過ごす。これが、唯一の方針だった。


 人と深く関わらなければ、裏切られる確率は減る。期待しなければ、傷つく量も減る。合理的だ。きっと。


 カーテンを閉める前、もう一度だけ窓の外を見た。森の緑が暗闇に溶けていく。秘密基地の森は、昔と同じ場所にある。何も言わず、そこにある。


 まるで、ずっと待っていたみたいに。


 ⸻


 引っ越してきて初めての夕方。冷蔵庫がまだ空っぽで、父も自分も料理に慣れていない。結局、コンビニで済ませることになった。


 外に出ると、空気が少し湿っていた。冬の手前の、冷えきらない季節。歩道のアスファルトは、昔よりも綺麗に整備されている。道路標識も新しい。だけど、街路樹の並び方や、角の電柱の傾きは、記憶の通りだった。


「変わってる……のに、変わってない」


 独り言がこぼれる。自分の声が、やけに小さく聞こえた。


 コンビニは、昔はなかった場所に建っていた。看板の光が、夕焼けの名残を薄く照らす。自動ドアが開く、あの電子音が妙に現代的で、過去の匂いを洗い流していく。


 入口に差しかかったとき、内側から誰かが出てきた。


 ――女の子。


 一瞬、視界がそこに固定される。黒髪のロングストレート。街灯の光を吸って、艶が沈む。肌が白い。切れ長の瞳が、こちらを見ているようで見ていない。制服は着崩しがなく、胸元のリボンも真っ直ぐ。髪の一房も乱れていない。


 綺麗だな、と単純に思った。雑な感想で済ませたくないほど整っているのに、同時に、その美しさが他人を遠ざける壁になっている。


 すれ違う瞬間、彼女の纏う空気が冷たいことに気づく。香水でも、柔軟剤でもない。匂いの話じゃない。温度の話だ。人が近づくと、無意識に肩を竦めてしまうような、氷の薄膜。


 悠真は反射的に目を逸らした。関わらないほうがいい。そういうタイプは、必ず面倒を運んでくる。偏見だと分かっていても、偏見は自分を守ってくれる。


 彼女は無表情のまま、店の外へ出ていった。通り過ぎるとき、ほんの一瞬だけ、彼女の視線がこちらに触れた気がした。けれど、その視線には何も乗っていない。名前も、興味も、問いかけも。


 ただ、確認するみたいに一瞥しただけ。


 すれ違ったあと、悠真は自分の鼓動がわずかに速くなっているのに気づいた。理由が分からない。綺麗な子だったから、で済むほど単純じゃない気がする。


 店内の暖かい空気に包まれ、棚を眺める。弁当コーナーで適当に二つ選び、父の好きな缶コーヒーも取る。レジに並びながら、ガラス越しに外を見ると、彼女の姿はもうなかった。


 帰り道、夜の町は静かだった。車の音が時折遠くから流れる。家々の窓に灯る明かりが、ひとつひとつ別の生活を抱えているように見える。


 ふと、横道の先に森が見えた。秘密基地の森。昼間よりも黒く、重い塊。あの中に入れば、昔の声が聞こえてきそうで、悠真は足を止めかける。


 ――やめとけ。


 自分に言い聞かせて、歩幅を戻す。過去に触れたところで、壊れたものが元に戻るわけじゃない。現実は、戻らないものの上に積み上がる。


 それでも、森はそこにあった。


 夜風の中で、葉の擦れる音が、何かの呼び声みたいに聞こえた。


 ⸻


 転入初日。千白高校の校門は、思っていたよりも大きかった。校舎は三階建てで、少し古い。けれど手入れはされている。地元の高校らしい「ほどよさ」が、あちこちに滲んでいた。


 胸の奥に、小さな警戒が立つ。都会の学校より閉鎖的だ、と父は言っていた。地方は、良くも悪くも人間関係が濃い。新参者は目立つ。目立てば、面倒が寄ってくる。


 職員室で担任に案内され、教室の扉が開く。視線が一斉にこちらへ向いた。教室の空気が、瞬時に変わる。好奇心と、値踏みと、退屈しのぎ。


「今日からこのクラスに入る、瀬戸悠真くんだ。みんな仲良くな」


 担任がそう言うと、教室のどこかで小さなざわめきが起きた。「都会から?」「戻ってきたって」「顔いいな」など、断片が耳に入る。


 黒板の前に立つ。名前を書く。手が震えるほどではない。ただ、無駄に注目されるのが苦痛だった。


「瀬戸悠真です。……よろしくお願いします」


 それだけ。愛想よく笑う必要はない。ここで変に盛り上げれば、その後が大変になる。最短で終わらせる。合理的。


 席は窓側の後ろから二番目。適度に視界が広い。逃げ道もある。座った途端、さっそく隣の席の男子が身を乗り出してきた。


「なあ瀬戸、前どこにいたの?」


「……少し都会の方」


「へえ、都会ってどのくらい? 渋谷とか行く感じ?」


「行くこともあった」


「すげー。俺、電車で迷って死ぬ自信あるわ」


 笑いが起こる。こういう軽さは嫌いじゃない。けれど、軽さの裏に濃さが潜んでいるとしたら、油断はできない。


 質問は次々飛んだ。部活は? 好きな食べ物は? 彼女いる? いちいち真面目に答えれば、話が膨らむ。膨らめば、関係ができる。


 悠真は、当たり障りのない返答だけを選んだ。


「部活は考えてない」

「好きな食べ物は普通に、カレーとか」

「彼女はいない」


 そして、適度に笑ってやり過ごす。相手の気分を損ねない程度に。深入りさせない程度に。


 昼休み、購買でパンを買って席に戻ると、朝に絡んできた男子が仲間を連れてきた。


「瀬戸さ、隣のクラスにヤバいのいるの知ってる?」


「ヤバい?」


「『高嶺の花』。冬月凛花。名前だけでも覚えとけ」


 男子たちは、口調は軽いのに妙に慎重だった。まるで禁忌を話題にするみたいに。


「冬月……凛花」


 その名前を聞いた瞬間、脳のどこかが微かに反応した気がした。けれど、引っかかりはすぐに霧散する。気のせいだ。全国にありそうな名前だ。


「とにかく美人。マジでやばい。けど、近づくと死ぬ」


「死ぬって何だよ」


 つい突っ込むと、彼らは一斉に身を乗り出してきた。


「死ぬ。メンタルが」

「普通に話しかけただけで氷点下」

「告白した先輩、秒速で散った」


 笑いながら話しているのに、目だけは本気で怯えている。冗談と本音が同居している感じ。地方の学校特有の、噂が一人歩きしている空気。


「誰にでも冷たいの?」


「うん。先生にも、女子にも。……女子にはまだマシって説もあるけど、基本は壁」


「じゃあ、ただの人見知りとかじゃないの?」


「いや、違う。なんつーか……近づくなってオーラがある」


 コンビニで感じた冷たい空気を思い出す。あの視線。あの無表情。あれが冬月凛花なのだとしたら、噂は誇張でもないのかもしれない。


 だが、興味は湧かなかった。綺麗で冷たい。面倒の匂いがする。自分の人生に必要な要素じゃない。


「へえ」


 それだけ言って、パンを齧った。男子たちは拍子抜けした顔をしたが、すぐに別の話題へ移った。スマホゲームの話。部活の話。誰と誰が付き合ってるとか。


 世界は、壊れても回る。自分の家庭が崩れたことなんて、ここでは誰も知らない。知ったところで、誰も責任を取らない。


 放課後、帰り支度をして教室を出る。廊下は人で溢れている。部活へ向かう生徒、委員会の生徒、恋人同士で歩く生徒。日常の群れ。


 昇降口に近づくほど、ざわめきが濃くなった。何かが起きている。人だかりができている。遠巻きの視線が、一点に集まっている。


 悠真は、反射的に足を止めた。こういう「事件」に巻き込まれるのが一番面倒だ。だが、通り抜けるには人の密度が高い。


 人の間から見えたのは、ひとりの女子だった。


 黒髪ロング。白い肌。切れ長の冷たい瞳。制服をきっちり着こなした姿。


 コンビニで見た少女。


 彼女の前には、背の高い男子が立っていた。言い争いではない。男子が何か必死に言っていて、彼女はただ聞いている。表情は変わらない。


「だからさ、俺……ずっと前から――」


 男子の言葉が途切れる。彼女が、短く言った。


「興味ないです」


 声は大きくないのに、空気が切れる音がした。周りの生徒たちが息を呑む。男子の顔が一瞬で赤くなる。怒りと羞恥が混ざった赤だ。


「っ……なんだよ、それ。人の気持ち――」


「迷惑です」


 たったそれだけで、男子は言葉を失った。周囲の空気が「終わった」という方向に傾く。誰も助け舟を出さない。彼女の冷たさに慣れているのか、あるいは関わること自体がタブーなのか。


 男子は拳を握りしめ、唇を噛み、結局は踵を返した。去り際に誰かが肩に手を置いたが、慰めなのか制止なのか分からない。


 人だかりは、彼女が動くと同時に道を空けた。まるで、水が割れるみたいに。


 彼女は、誰も見ていないように前を向き、歩き出す。背筋が真っ直ぐで、歩幅が一定。感情を置き去りにしたような歩き方だった。


 すれ違いざま、悠真の視線が彼女に触れた。彼女の瞳が、ほんの一瞬だけこちらを掠める。コンビニのときと同じ。何も乗っていないようで、何かを測っているような。


 胸の奥が、また微かにざわついた。


 だが悠真は、目を逸らして靴を履いた。理解できない感情に触れるのは、危険だ。人間関係の不確実さは、もう十分に味わった。


「……あいつが噂の」


 口の中で呟いて、校門へ向かう。彼女に近づくつもりはない。関わらなければ、冷たい空気に凍えることもない。


 校門を出たところで、ふと背中に視線を感じた気がした。振り返らなかった。振り返ったら、何かが始まってしまう気がしたから。


 家までの道は、覚えているはずなのに、何度も角を間違えそうになった。街は変わっていた。自分も変わっていた。


 変わらずそこにあるのは、町の端の森だけだ。


 秘密基地の森は、夕暮れの中で黒く沈み、何も言わずにこちらを見ていた。


 ⸻


 ――


 冬月凛花は、校門を出たところでそう思った。


 違う。あれは、違う人。幼い日の記憶は、もっと曖昧で、もっと温かい。自分の中で神聖化されすぎて、現実と一致するはずがない。


 なのに。


 昇降口の人だかりを抜ける瞬間、視界の端に見えた横顔が、胸の奥を無遠慮に叩いた。知らないはずの輪郭。知らないはずの立ち方。けれど、なぜか、知っているみたいに感じた。


 凛花は、指先に力を入れてバッグの持ち手を握りしめる。白い指がさらに白くなる。


 ――違う。違う。違う。


 そうやって否定するほど、心が勝手に期待を始める。もしも。もしも。もしも。


 期待は、失う前提で生まれる。失うくらいなら、最初から期待しなければいいのに。理屈は正しいのに、心は理屈を聞かない。


 家へ向かう道の途中、町の端の森が見えた。再開発から取り残された雑木林。止まった時間の塊。


 凛花は、歩みをほんの少しだけ遅くした。森の奥に秘密基地があることを、まだ体が覚えている。そこに行けば、何かが思い出せる気がした。


 思い出せるのが怖いのに。


 凛花は唇を噛み、視線を前へ戻した。今日も、何も変わらない。明日も、きっと同じ。


 そうであってほしい、と願いながら。


 そうでないなら、もう二度と失わないために――何をすればいいのかを、考え始めてしまうから。

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