第6章. 賭けの始まり
いよいよ今日だ。
全ての準備を整え、出発する前に、私は鏡を見つめ、最後の『武装』を点検する。
肌、OK。
髪、OK。
ドレスと装飾品の調和も悪くない。
眉と唇も……完璧。
――あっ、表情が硬い。
リラックス、リラックス。
今日で全てが決まる。
エーリヒ。そして……もしかすると、アルブレヒト皇子の運命までも。
二人を救えるかもしれない。
けれど逆に、救えないかもしれない。
もしかすると――私も巻き込まれて死ぬかもしれない。
正直、怖い。
いくら高性能な防御魔導具があっても、爆弾の中心に飛び込むのだ。
怖くない方がおかしい。
今でも、遠くへ逃げたくなるくらいに。
「怖いのは、それだけじゃない」
今日以降、私は父の庇護を失うかもしれない。
父オレスキーは今回の件を知りながら傍観している。
帝国が強くなるのは、オブロフのような中立国にとって脅威だからだ。
だから、アルブレヒト皇子とエーリヒを救うことは、あの『恐ろしい父』の意思に逆らうことになる。
『山猫に捕まった小鳥を助ければ、山猫の子が飢え死にする』――
父がよく口にしていた比喩だ。
しかも、私が把握したアルブレヒト皇子は小鳥ではない。
幼い子ライオンだ。成長すれば、周囲を食らい尽くす王になるだろう。
それでも……私は彼らを救いたいと思っている。
「……やっぱり私、正気じゃないみたい」
まあいいや。
勘当されたら世界旅行でもしよう。
まだ行ったことのない国がたくさんあるじゃない?
お金は……まあ、七皇子から巻き上げればいい。
自分と大切な親友の命の値段を払うくらい、してくれるはず。――そう信じてる。
鏡に映る自分に、ふっと笑みを向ける。
オブロフの枠に閉じ込められたエカテリーナは、一度も見せたことのない表情。
生き生きとしているのに、緊張を含んだ笑顔。
「お迎えに参りました、イリィチャ令嬢」
私は目の前の男に明るく微笑んだ。
――そして胸の奥でひそかに思う。
エーリヒを救って、あの皇子が本気で感謝する顔を絶対見てやろうと。
今まで結構苦労してたんだから。
「待っていましたわ、エーリヒ」
賽は投げられた。
一年の収穫を天に感謝し、来年の豊作を祈る祭日――それがリューネの日。
オブロフにも収穫感謝祭はあるが、盛大な舞踏会と共に祝うのは帝国だけだ。
馬車を降り、会場へ向かいながら、心の中で舌打ちする。
二回目でも慣れないわね、この皇城……やりすぎよ、帝国。
視界の隅々まで金箔と彫刻、絵画。
そこにあらゆる照明が反射し、目が痛くなるほど輝いている。
――そのきらめきの中で、ふと、会ったことのない青い瞳を思い出す。
今ごろ、アルブレヒト皇子もどこかでこの夜を見下ろしているだろうか。
周囲には、彫刻と同じくらい過密に衛兵たちが並んでいた。
皆、硬い表情で視線を巡らせている。
「舞踏会にしては、物々しい雰囲気ですね」
「今回は戦勝の宴も兼ねていますから。不穏分子が動く可能性があるため、備えているのです」
頷きつつ、頭の中で計算する。
――内部の警備が甘ければ、外を固めても意味がない。
報告書の内容が脳裏をよぎる。
七皇子アルブレヒトは、内戦で三皇子クラウデルンの勢力を滅ぼし、本人だけは生かした。
今日、この場で屈辱を返すためだ。
華やかな舞踏会のはずなのに、漂うのは硬直した空気。
集まった貴族たちは仮面のように優雅に笑っているが、その裏に隠した緊張が透けて見える。
――ほとんどが、知っているのね。
今日が勝利宣言であり、復讐であり、そして警告であることを。
ここまで全て、オブロフの情報員たちが記した報告書どおりだ。
空は暗くなり始め、入場を待つ人々の列が伸びていた。
爵位の高低に関係なく、招待状を提示し順に入らなければならない。
やっぱり帝国側にパートナーを依頼してよかった。
私の視線は自然と隣のエーリヒへ向かう。
私のドレスに合わせた濃いグレーの礼服が、鍛えられた体格を引き立てていた。
……こんな素敵なパートナーを置いて、大使と来るところだったなんて!
格好悪くハゲで太鼓腹のおじさんと入場なんて、帝国デビューとして絶対お断り。
大使も、胃潰瘍の原因となる私とは一緒にいたがらなかった。
――おかげで、私たちの意思は見事に一致したということだ。
――その時。
軍服を着た男が早足で近づいて、エーリヒに耳打ちした。
伝言を聞いたエーリヒが困った顔をする。
「イリィチャ令嬢……。申し訳ございませんが、
……何ですって?
「あらまあ、どうしたのですか?」
「……殿下のご命令がありました。本来ならパートナーであり、国賓である令嬢を一時でもお一人にしておくべきではありませんが……」
ちょっと、ちょっと!
賓客の私を一人に? 入場直前に?
私の瞳が右から左へ、また右へと忙しく動く。
――アルブレヒト皇子の策略に違いない。
肖像画で見た冷ややかな微笑み。
わずかに挑発を含んだ眼差しが、脳裏に鮮やかに浮かんだ。
――明らかに私を困らせて、恥をかかせるつもりね?
わあぁ、斬新な歓迎の挨拶ね!
嬉しくて胸がドキドキしちゃう。
「本当に申し訳ございませんが、ご了承いただけますでしょうか?」
「うーん、仕方ないですね」
「儀典行事だけ終わらせて、すぐ令嬢の元に戻ります。そして、今からでも代わりの方も探して――」
「まあ、それじゃないんですよ。もっと簡単な方法があります」
「はい?」
私はニヤリと笑った。
「私が儀典行事に同行すればいいじゃないですか」
「……!」
「突然、賓客をパートナーなしで入場させる無礼を犯すよりは、ずっと自然です。
オブロフと帝国が友好関係にあることも示せますし。――違いますか?」
父から教わった懐柔と小さな脅迫は、こういう時に役立つ。
政治的な駆け引きに不慣れなエーリヒは言葉を詰まらせた。
「それは、そうですが……」
「でしょう? エーリヒもやはり私の意見に同意してくれますよね?」
私の前で『いいえ』という言葉を口にできず、困った表情をするエーリヒ。
どちらも困るだろう。
賓客である私を放置して席を外すのも、私を同伴してアルブレヒト皇子の元に行くのも。
アルブレヒト皇子は、こんな命令を出すほど私が嫌いらしい。
……わぁ、嬉しくて体が温まるよ。
「それに……。今さら入場のパートナーを見つけるのは難しいでしょう?
一人で入場するのは……、本当に残念なことですし」
潤んだ眼差しの演技で、エーリヒの良心をくすぐる。
善良で礼儀正しい彼の性格は、もう分かっているから。
「皇子殿下は私に恥をかかせたいご様子ですね。……エーリヒ、私を助けてくれるでしょう?」
耳元で囁くと、彼の瞳が大きく見開かれた。
その逡巡が傾く瞬間、私はエーリヒの腕を取った。
エーリヒの体が硬直する。
「イリィチャ令嬢……」
「私が感謝の言葉を言ってもいいですか、エーリヒ?」
結局、エーリヒは私の手を離さなかった。
――私の選択が、あの皇子の心にどんな色を残すかな?
「承知いたしました。ご一緒に」
「ありがとうございます! やっぱりエーリヒがいて助かりましたわ!」
「はは……。それでは入場いたしましょうか?」
エーリヒにエスコートされ、会場の入り口へと進む。
華やかな照明の向こうに、星が一つ二つ昇り始めていた。
――
すぐ側にいないと守れない。……だからだよ。
私があなたの側にいなければならない理由は。
私がこれを使うと、あなたを救えるはず。
そう信じる。そう祈るしかない。
今日も首に掛けた真珠のネックレスが、星明かりを受けたように輝いた。
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