第3話ひび割れた揺り籠

その平穏は、暴力的な音によって打ち砕かれた。

​ ドンドンドンドン! と、玄関のドアを激しく叩く音。


「圭! 圭、いるんだろ! 開けろ!」


​ 親友の健斗の声だった。微睡まどろみの中にいた僕の意識が、その熱を帯びた怒鳴り声で急速に引き戻される。行かなきゃ、と立ち上がろうとした僕の肩を、繭の冷たい指先が強く押し止めた。


​「行っちゃダメ。圭は病気なんだから」


​ 繭は僕に微笑みかけたまま、ドアの方へ顔を向けた。その瞬間、彼女の横顔から一切の感情が消え失せる。


​「……帰って。圭は今、深刻な感染症で隔離されているの。あなたが来ると、この人の命に関わるわ。二度と来ないで」


​ 聞いたこともない、低く刺すような声。

 ドアの向こうで健斗が絶句するのがわかった。しかし、彼はすぐにさらに激しく叫んだ。


​「嘘つくな! 大学の奴らもお前の親父さんもパニックになってるんだぞ。スマホを解約したのはお前じゃないだろ! それに……あの子、茶髪の長い髪の……講義で隣にいた子も、お前と最後に会ったきり行方不明なんだぞ!」


​ ――茶髪。長い髪。

 脳裏に、あの日繭が指先で「プチッ」と引きちぎったあの髪の毛が蘇る。

 急激に血の気が引いていく。スマホの解約? 行方不明?

 繭が淹れてくれたお茶のせいで霧がかかっていた脳内が、冷や水を浴びせられたように凍りついた。僕は繭の手を振り払い、ふらつく足でキッチンにあるゴミ箱へ向かった。


​「圭? 何をしているの?」


​ 繭の静かな声が背中に刺さる。

 僕は震える手でゴミ箱の奥、彼女が「整理した」不純物の残骸をあさった。

 見つけたのは、粘着テープに絡まりついた、まとまった量の茶色の長い髪。そして、その根元には――赤黒く変色した「何か」が付着していた。


​「あ……、あぁ……」


​ それが何であるかを理解した瞬間、喉の奥から酸っぱいものが込み上げた。

 繭は僕を「守って」いたのではない。僕に触れたもの、僕が触れた世界を、物理的に「排除」していたのだ。

​ 僕は玄関へ走った。しかし、ドアノブには見たこともない頑丈なチェーンが何重にも巻き付けられ、鍵穴は接着剤のようなもので固められていた。


「……開けて。開けてくれ、繭! 健斗の言ったことは本当なんだろ、あの髪の毛の子に何をしたんだ!」


​ 圭の叫びに、繭は動じない。それどころか、彼女はひどく悲しそうな、それでいて慈愛に満ちた表情で首を振った。


​「どうしてそんなに怯えるの? 私はただ、邪魔な汚れを掃除しただけよ。……ねえ、圭。忘れてしまったの? あなたが私を、こういう風に『育てた』んじゃない。」


​「……え?」


​ 圭の足が止まる。繭は一歩、また一歩と距離を詰め、彼を壁際へと追い詰めていく。


​「小学校の頃、私が虐められていたとき、あなたは私の手を握って言ってくれたわよね。『僕が繭を守ってあげる。一生、離れないよ』って。……あの時、私の世界にはあなたしかいなくなったの。あなたが私の心に、あなたという種を植え付けたのよ。」


​ 彼女の指が、圭の頬を這う。その感触は、あの日繋いだ幼い手の温もりとは正反対の、凍てつくような冷たさだった。


​「あなたが優しくするから、私はあなた以外を愛せなくなった。あなたが守ると言ったから、私はあなたを汚す不純物を排除するようになった。……ねえ、今の私を作ったのは、あなたのその『優しさ』なのよ。今さら逃げるなんて、無責任だと思わない?」


​ 過去の記憶が、凶器となって圭の胸に突き刺さる。

 純粋だったはずの約束が、年月を経て歪み、化け物のように膨れ上がっていた。繭の言葉は、物理的な錠前よりも重く、深く、圭の自由を奪っていく。


​「あなたがこうさせたのよ、圭。だから、最後まで責任を取ってね。」


​ 繭の微笑みは、もう救いを求める少女のそれではなく、獲物を完全に捕らえた蜘蛛のようだった。

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