第2話情報の繭

深い泥の中に沈んでいくような眠りから覚めたとき、部屋は夕闇に包まれていた。

 圭は重い頭を持ち上げようとしたが、首筋から背中にかけて、見えない鎖で縛り付けられているかのように力が入らない。


 ​「あ……。講義、は……」


 ​かすれた声に応えるように、枕元で衣擦れの音がした。ずっとそこに座っていたのだろう、繭が慈しむような眼差しで僕の顔を覗き込んできた。


 ​「まだ寝ていて大丈夫よ、圭。さっき大学には、あなたがひどい熱を出したからしばらく休むって、私から連絡しておいたわ。……あんなに顔色が悪いんだもの、無理しちゃダメ」


 ​「そうか……。ごめん、繭。助かるよ……」


 ​繭の言葉は、いつも僕のことを一番に考えてくれている。サイドテーブルに置かれたスマートフォンに無意識に手を伸ばそうとしたが、指先が痺れてうまく動かない。それを見た繭が、そっと僕の手を包み込んだ。


 ​「スマホなら、私が預かっておくわね。今は通知の音さえ、あなたの頭に障るでしょう? 誰からも余計な連絡が来ないように、私が全部整理しておいてあげたから。安心して、ゆっくり休むことだけ考えて」


 ​「……ありがとう。繭がいてくれて、本当によかった」


 ​僕の世界から音が消えていく。スマホという外界への窓を繭が閉ざしてくれたことに、僕は恐怖ではなく、むしろ深い安堵を覚えていた。彼女が僕の知らないところで僕の人間関係を「整理」していることさえ、今の僕には献身的な愛の形にしか見えなかった。


 ​繭は僕の腕を取り、温めたタオルで丁寧に拭き始めた。

 指先、手の甲、肘の裏。まるで壊れやすい宝物を磨き上げるような、あまりにも繊細な手つきだ。


 ​「圭のこの腕も、私だけが知っていればいい。あなたが弱っているときは、私があなたの代わりになってあげる」


 ​彼女は僕の二の腕の内側、柔らかい部分に、そっと自分の爪を立てた。

 ちくりとした痛みが走る。白い肌に赤い三日月形の痕が刻まれるのを、繭はうっとりとした表情で見つめていた。


 ​「ふふ、綺麗な赤。これで、私たちが繋がっている印ができたわね」


 繭の瞳は、狂おしいほどの情愛で溢れていた。

 痛みさえも、彼女の体温の一部であるかのように心地よく、この部屋に充満する甘い沈黙の中に溶けていく。

 窓のカーテンは固く閉ざされ、隙間から漏れるわずかな街の灯りさえも、繭が僕に纏わせた厚い「糸」に遮られて届かない。

 ​僕は、彼女が作り出した透明な繭の中で、守られている幸福に浸っていた。

 外の世界が遠ざかるほどに、繭の囁きだけが、この世で唯一の真実のように僕の意識を埋め尽くしていった。

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