第10章 忍び寄る影
栄光の宴から一ヶ月。 季節は晩秋を迎え、北風が冷たさを増していた。 私の元に、一台の馬車が早馬で駆け込んできた。 乗っていたのは、北方の国境警備隊の兵士だ。
「た、頼む……! 助けてくれ!」
担ぎ込まれた兵士の姿を見て、工房の空気が凍りついた。 彼の着ている軍服は、ボロボロに溶け落ちていた。 まるで、強力な酸を浴びたかのように、繊維がドロドロに崩壊し、その下の皮膚が赤く爛(ただ)れている。
「これは……『腐敗の霧』か?」
院長が悲鳴のような声を上げた。 北の地で発生したという、謎の怪現象。 霧に巻かれた者は、着衣を溶かされ、やがて皮膚も肉も冒されて死に至るという。
「急いで洗浄しろ! アルカリ中和剤だ! いや、まずは大量の水で洗い流せ!」
私は指示を飛ばし、自らもバケツを持って走った。 兵士の衣服の残骸をピンセットで採取し、顕微鏡(ガラス職人に作らせた簡易的なもの)で覗き込む。
「……呪いじゃない」
レンズの向こうに見えたのは、魔法的な瘴気ではなかった。 繊維の分子結合が、化学的に切断されている痕跡。 そして、微粒子として付着している黄色い粉末。
「硫黄(イオウ)酸化物……いや、もっと複合的な『酸性物質』だ」
これは、ただの自然現象ではない。 工場排水や火山ガスが濃縮されたような、高濃度の化学汚染物質だ。 兵士の服――国から支給された安物の麻布――は、この酸性霧に対する耐性が皆無だった。 繊維が酸を吸着し、むしろ皮膚へのダメージを加速させる湿布の役割を果たしてしまっていたのだ。
「工場長……彼は助かるのか?」
カイルが不安そうに尋ねる。 兵士は一命を取り留めたが、皮膚の損傷は激しい。
「助ける。そして、対策を打つ」
私は拳を握りしめた。 魔王軍の正体は分からない。 だが、彼らが使っている「兵器」の正体は見えた。 これは化学戦だ。 ならば、対抗手段は魔法(オカルト)ではなく、化学(ケミストリー)でなければならない。
「全ラインを停止! 緊急生産体制に入る!」
私の号令が工房に響く。 従業員たちが緊張した面持ちで動きを止める。
「今から作るものは、ファッションじゃない。命を守る『防護服(ハザードスーツ)』だ」
必要なのは、耐酸性のある素材。 羊毛(ウール)は酸に強いが、アルカリに弱い。 綿(コットン)は酸で溶ける。 この世界にポリエステルやナイロンといった合成繊維はない。
「……いや、ある」
私は思い出した。 先月、冒険者ギルドから買い取った「ジャイアント・スパイダーの糸」と、森の奥で採れる「樹脂」を。 天然の素材でも、加工次第で合成繊維に近い性質を持たせることは可能だ。 樹脂加工(コーティング)による撥水性と、耐薬品性の付与。
「トム! 樹脂の配合を変えるぞ。撥水度を最強にしろ。通気性は多少犠牲にしてもいい、霧を1ミクロンも通すな!」 「はい、工場長!」
「カイル! 縫い目だ。縫い目から霧が侵入する。縫製後に、縫い目を樹脂でシーリング(目止め)する工程を追加しろ!」 「りょ、了解!」
工房は戦場へと変わった。 敵は見えない霧。 武器は、樹脂と糸とミシン。 私たちは、徹夜で試作品の開発に没頭した。 もし、この霧が国境を越えて南下してくれば、この国の兵士は戦う前に全滅する。 それを防げるのは、剣聖でも大賢者でもない。 私たち「繊維屋」だけなのだ。
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