第5章 商会との対決と契約


革靴が泥を踏みしめる不快な音と共に、その男は現れた。 鼻孔をくすぐるのは、体臭をごまかすために振りかけられた安っぽい香水の匂いと、脂ぎった欲望の気配。 私の「工程表」に、招かれざる障害(バグ)が発生した瞬間だった。


「おい、ここの責任者はどいつだ? 勝手な真似をしてくれているようじゃないか」


工房の入り口を塞ぐようにして立っていたのは、派手なベルベットのコートを着込んだ巨漢だった。 指にはまる下品なほど巨大な宝石の指輪が、彼の贅肉に埋もれている。 男の背後には、いかにも柄の悪い用心棒たちが数人、威圧的な態度で控えていた。 彼らが乗ってきた荷馬車には、私たちが契約したはずの綿花の俵が積まれている。


私はため息をつき、手に持っていた検品用のルーペをポケットにしまった。 やはり来たか。 既存の市場にイノベーション(革新)を持ち込めば、必ず既得権益層(レガシー)との摩擦が起きる。 これは物理法則と同じくらい絶対的な、ビジネスの法則だ。


「私が責任者のアルカスです。……何か御用でしょうか? その綿花は、私たちが村から買い付けたものですが」


私は努めて冷静に、事務的な口調で切り出した。 巨漢は見下すように鼻を鳴らした。


「俺は『鉄糸商会』の支部長、ガムルだ。この辺りの繊維流通は、すべて俺たちの管轄なんだよ。どこの馬の骨とも知れんガキが、挨拶もなしに商売を始めるなんざ、筋が通らねえな」


ガムルは私の胸倉を掴み上げようと手を伸ばしたが、私は半歩下がってそれを避けた。 彼のコートの袖口が見えた。 縫製が甘い。糸調子が合っておらず、縫い目が引きつっている。 あんな服を着て「商会」を名乗るとは、笑止千万だ。


「挨拶、ですか。自由市場において、参入障壁を設ける法的根拠はどこに?」


「へっ、法だと? 俺たちがルールだ。その綿花が欲しけりゃ、通行料を払ってもらおうか。相場の三倍だ」


典型的な恫喝。 後ろで作業をしていた孤児たちが怯えて身を寄せ合っているのが視界の端に入った。 カイルが悔しそうに拳を握りしめている。 暴力で解決するのは簡単だ。ソフィアに頼んで衛兵を呼べばいい。 だが、それでは「ビジネス」として勝ったことにならない。


「三倍ですか。……いいでしょう」


「アルカス!?」


カイルが叫んだが、私は手で制した。 ガムルは下卑た笑みを浮かべた。


「物分かりがいいじゃねえか。最初からそうしとけば――」


「ただし」


私は言葉を遮った。


「その綿花が、それだけの価値がある『品質』ならば、です」


「あ?」


「あなたの商会が扱う糸と布。そして私が作る布。どちらが優れているか、ここで比べましょう。もし私が負ければ、この工房も技術も、すべて商会に譲渡します」


「ほう……?」


ガムルの目が欲望にぎらついた。 彼はソフィアが買い上げた私の「B級品」の噂を聞きつけていたのだろう。 その技術をタダで手に入れられる好機だと思ったに違いない。


「いいだろう。だが、もしお前が勝ったら?」


「今後一切、私たちの物流(ロジスティクス)に関与しないこと。そして、私たちが指定する品質基準(スペック)を満たした原料を、適正価格で優先的に納入すること」


「ガキが、調子に乗るなよ……! やってやる!」


勝負は単純だった。 「同じ重さの重りを、布で吊り下げる」。ただそれだけだ。 ガムルが出してきたのは、彼らが「最高級」と自負する厚手の麻布。 私が用意したのは、この工房で織り上げた標準的な綿布だ。


広場に集まった野次馬が見守る中、実験が始まった。 ガムルの麻布に石が積まれていく。 生地が悲鳴を上げるような音を立て、やがて「ビリッ」という鈍い音と共に裂けた。


「……30キロ。まあ、そんなものでしょう」


私は淡々と記録した。 繊維の太さが不均一なため、応力が弱い部分に集中して破断したのだ。


次は私の布だ。 石が積まれる。30キロ、40キロ、50キロ。 布はピンと張り詰めているが、裂ける気配はない。 ガムルの顔色が変わっていく。脂汗が額を伝い、頬の白粉(おしろい)が溶けて流れ落ちた。


「な、なぜだ……! そんな薄っぺらい布が、なぜ千切れない!?」


「均一性(ユニフォーミティ)です」


私は静かに答えた。


「あなたの布は、太い糸と細い糸が混在している。負荷がかかると、細い糸から順に切れていき、連鎖的に崩壊する。私の布は、全ての糸が同じ太さ、同じ張力で織られている。全員で均等に負荷を支えているのです」


60キロを超えたところで、ようやく留め具の方が破損し、実験は終了した。 布自体は無傷だった。


「組織力ですよ、ガムルさん。一本の英雄(太い糸)に頼るのではなく、平均的な市民(均一な糸)が手を取り合う方が、社会(布)は強くなる」


ガムルは腰を抜かし、泥の中に座り込んだ。 その姿は、古い時代の敗北者そのものだった。


「約束通り、物流は確保させてもらいます。ああ、それと……」


私は彼を見下ろして付け加えた。


「あなたのそのコート、縫製がひどいですね。脇の下がほつれていますよ。今度、うちの製品を買ってください。社員割引くらいはしますから」

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