第2話:割れなかった魔石

 帳簿の最後の行に、定規を当てて赤線を引く。 ためらいはない。介錯するように、思い切りよく、だ。


 よし、終わり。これ以上、今日の俺に期待するのは酷というものだ。


 今日の分に細かな不備が二つほどあるのは分かっている。

 数字の転記ミスと、確認印のかすれ。どちらも致命的ではないが、

 今ここで修正に手を伸ばせば、間違いなくその先が一時間の残業に化ける。


 俺は余白に小さく「要・再確認」の印を打ち、明日の自分という名の他人へパスを回した。

 これは逃げではない。戦略的な業務分散だ。


 俺が詰めているのは、ヴァルセスタ王国辺境の採掘都市にして、もっとも華のない職場、グレイホルム代官館。

 装飾の一切ない石造りの壁は、城塞のように分厚い。

 ここは人を迎える場所ではなく、終わりのない判断と責任を焼却処理するための施設だ。



「……腹が減ったな」


 誰もいない執務室で、腹の音がやけに大きく響いた。

 インクで黒く汚れた指先を眺め、短く息を吐く。


 帳簿に向かう時間が長くなると、頭の奥が鈍くなる。判断が遅れ、同じ行を何度も読み返す。この街では、そのような症状をまとめて「魔力酔い」と呼ぶ。魔法を使わなくても、魔力の流れが濃い土地に長く居ると起きる。

 だから、切り上げ時を誤らない。判断が雑になり、書類の山が崩落する前に席を立つ。

 撤退もまた、立派な実務だ。


 外套を羽織り、執務室の重い扉を閉める。 鍵を回すと、ガチリと硬い手応えが返ってきた。蝶番が少し渋いが、油を差す予算の申請書を書くのが面倒で放置している。


 外に出ると、鼻を突くのは焦げた炭の匂いがした。

 昼間に鍛冶場や魔石加工所で吐き出された熱気が、夜気の中で冷やされ、街の底に沈殿している。

 いかにも採掘都市らしい、肺に重たい空気だ。


 市民居住区へ続く道は、パッチワークのような補修痕だらけだ。この街の地面は、たまに意志を持ったみたいに盛り上がる。そのたびに「またかよ」と愚痴を叩きながら石を詰め直す。英雄の武勇伝なんてないが、土木作業員の愚痴ならどこにでも落ちている。


 道端には、一定間隔で警告杭が立っている。魔力の淀みが溜まりやすい場所を示す標識だ。

「ここで立ち止まると頭痛がするぞ」という親切な警告だが、夜の闇に浮かぶその姿は、まるで墓標のように見える。


「……おっと。そこは長居しない方がいいぞ」


 杭のそばでぼんやり立っていた若者に声をかける。


「明日の朝、頭が鉛のように重くなる。明日の仕事に差し支えるぞ」


 若者はハッとして足を止め、俺の顔を見た。


「あ、エルンさん……」


 名を呼ばれ、少しだけ眉を上げる。 採掘現場に口うるさい許可証を持って回るおかげで、顔だけは売れているらしい。

 若者は素直に杭の外へ移動し、ぺこりと頭を下げて去っていった。


「健康のため」と言うより、「仕事に支障が出る」と言ったほうが、この街の人間には危機感が伝わる。市民居住区に入ると、ようやく石と鉄以外の匂いがしてくる。 屋根は低くなり、窓から生活の灯りが漏れている。

 行きつけの宿屋兼食堂「鉄鍋亭」は、いつもの場所で、いつものように煤けていた。


 看板の文字は半分消えかかっているが、中から漂う煮込みの匂いだけは裏切らない。扉を開けると、主人が鍋を片手にこちらを睨んだ……いや、見ただけだ。こいつの顔が怖いのは生まれつきだ。


「今日は、書類の山に埋もれずに済んだか」


「ああ、生命からがらなんとか脱出してきた。いつものを頼む」


「はいよ。今日は『当たり』だぞ。肉がいつもより三ミリは厚い」


「それは豪勢だな。祝杯を上げなきゃならん」


 カウンターの端、いつもの席に腰を下ろす。 椅子は太いボルトで床にガッチリ固定されている。時折起こる地面の微震や、荒くれ者の喧嘩で椅子が武器になるのを防ぐための、この街特有の「インテリア」だ。


 少しして、木皿が置かれた。


「今日は煮込みが先だ。肉は昨日切って漬け込んだ分だから、柔らかいぞ」


 出てきた煮込みは、相変わらず茶色一色。だが、この「泥みたいな見た目で驚くほど美味い」スープが、一日の疲れを溶かしてくれる。


 その時、後ろの卓でガシャンと音がした。


「おい、ふざけんな!その魔石、袋に入れろって言っただろ!」


 振り返ると、若い採掘夫がニヤニヤしながら、剥き出しの魔石片を卓に置いていた。

 石は微かに震え、周囲の空気を歪ませている。


「固いこと言うなよ。見てろ、これで酒が冷えるんだ……」


「冷えるんじゃなくて、変質するんだよ!馬鹿かお前は!」


 主人が、包丁を持つ手をピタリと止めた。

 店内の空気が凍る。このままでは、包丁が食材以外のものを切ることになる。


 俺はスプーンを置き、よっこらしょと腰を上げた。


「おい、そこまでだ」


 若者の卓に歩み寄り、低い声で告げる。


「その石を今すぐ袋にしまえ。さもないと……」


 若い採掘夫が鼻で笑った。


「なんだよ、代官気取りか? 割れたら弁償すりゃいいんだろ」


「代官じゃないが領務官だ。弁償? そんな楽な話で済むと思っているのか」


 俺は冷めた目で男を見下ろした。


「ここで魔石が割れた場合、お前には『第一種汚染区域発生報告書』を書いてもらう」


「は……?」


「次に『清掃実施計画書』だ。これは承認印が三つ要る。さらに、もしその粉が誰かの靴についたら、『二次被害拡散防止確認書』が追加で一枚増える」


 男の表情が、目に見えて固まった。 俺は畳み掛ける。


「それが終わったら、トドメの『再発防止始末書』だ。様式は三種類あるが、俺の気分次第で一番欄が細かいやつを使わせる」


「……さ、三種類?」


「ああ。マス目が麦粒みたいに小さいやつだ。一文字でも書き損じたら、最初から書き直しだぞ。訂正印は認めない」


 周囲の卓から、何人かの男たちが「うわぁ……」と引いた声を漏らし、くすりと笑った。

 彼らもまた、書類地獄の被害者なのだろう。


「提出は各三部。控えとお前用と保存用だ。不備があれば即差し戻し。添付資料として『反省文』もつけてもらう」


 若い採掘夫の顔から血の気が引いていく。


「そ、それ……どれくらいかかるんだ」


「俺がつきっきりで指導してやって、早くて三時間。慣れてなきゃ、朝日を拝むことになるな」


 店内が静まり返った。 暴力よりも、説教よりも、「終わらない書類仕事」の恐怖が勝った瞬間だ。


「だから」


 俺は魔石片を指先で指し示す。


「袋に入れろ。今なら、『何も起きなかった』ことにしてやる」


 若い採掘夫は悲鳴にも似た声を上げ、慌てて魔石を汚れた布で包み込んだ。


「……くそ。景気付けに一発、何か起こしたかっただけなんだよ!」


「何か起こしたいなら、明日の朝、冒険者ギルドで代官館の庭の草むしりでも申し込め。あそこは魔力の歪みのせいで、抜いても抜いても変な植物が生えてくるんだ」


 店内に、どっと笑いが起きた。 張り詰めていた空気が緩み、日常の喧騒が戻ってくる。

 

 主人が俺の前に、おまけのパンを一切れ置いた。


「助かったよ、エルン。書類地獄の脅しは効くね」


「俺にとっても地獄だからな。……お、このパン、昨日より柔らかい」


 勘定を払い、外へ出る。夜風が心地いい。

 ふと見れば、さっきの男たちの卓では、杯が一つも倒れずに済んでいた。

 大事件は起きない。劇的な解決もない。


 ただ、明日もまた同じように事務仕事をこなし、同じように茶色い煮込みを食う。


「……さて。明日の草むしり、本当に誰か雇うかな」


 警告杭に肩をぶつけないように気をつけながら、俺は代官館への道をゆっくりと歩き出した。

 グレイホルムの夜は、今日も相変わらず、少しだけ平和だ。

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「右は崖、左は沼」の地図を引く仕事 ~鉄仮面の代官と行く、辺境実務録~ 烏羽玉 @owswi54041

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