「右は崖、左は沼」の地図を引く仕事 ~鉄仮面の代官と行く、辺境実務録~
烏羽玉
第1話:空飛ぶ役人と麦藁の領収書
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
空が近い。やけに近い。 風が頬を叩き、視界が揺れる。
空を飛ぶ――
それは、どんな高名な魔法使いもまだ実現できていない人類の夢だ。
空を飛べたら、どれだけ気持ちいいだろう。雲を見下ろして、地面の喧噪を遠くにして。
俺は今、空を飛んでいる。
……いや、正確には、吹っ飛ばされている。
まずい。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
落ち着け。順番だ。
なんで俺がこんなことになったのか。
それを話すには、今朝のいつもの様子から語らないといけない。
夜が明けきる前の時間が、この街にはある。
空は白み始めているのに、音だけが残る。
採掘場の方角から、石を扱ったあとの乾いた気配が流れてくる。もう掘ってはいない。だが、掘ったあとの空気は簡単には消えない。
グレイホルムは、そういう街だ。
ヴァルセスタ王国の辺境にある採掘都市。
魔石が出る場所に人は集まり、壁が築かれ、門が閉じられた。
魔法は特別なものじゃない。
だが、便利な道具として扱われてもいない。
使えば流れが歪む。
歪めれば、戻す手間が増える。
だからこの街では、使わずに済むなら使わない。
夜が終わる頃、街で灯りが残っている建物は限られている。
代官館と、その敷地内の官舎。
人が住むための建物ではない。
判断と責任を処理するための施設だ。
決断は代官がする。
俺は、その前段を片づける。
俺の名はエルン。
ここはヴァルセスタ王国の辺境、魔石の採掘都市グレイホルムだ。
この街で育ち、掘削音と一緒に朝を迎えるのが当たり前だった。
役職はない。任命状もない。歴史書に載ることもない。ただ、代官が「右か左か」を決める前に、「右は崖で左は沼です」という地図を用意するだけの領務官だ。
この街では、貴族かどうかより、仕事が優先される。
俺は、そのためにここにいる。
机の上には、昨夜のうちに揃えられた書類が並んでいる。紙の端は揃い、順も決まっている。
そこへ、湯気の立つ紅茶が置かれた。
「おはようございます、エルンさん」
「おはようございます、ハロルドさん。……紅茶ですか」
「はい。今朝は少し濃いめです。顔色が羊皮紙と同化しておりましたので」
「それは助かります。インクと間違われてペンを突き立てられる前に目が覚めそうだ」
メイドのアニエスは表情を変えずに一礼した。 彼女はこの館の時計だ。必要な時に必要なものが、感情抜きで提供される。
「本館は、もうお使いになりますか」
「ええ。すぐ向かいます」
「では、戸を開けておきましょう」
熱い茶を流し込み、胃を焼く。 よし、起動した。
本館に入ると、灯りはすでについていた。
代官館では、朝に灯りが消えている方が珍しい。
本館に入ると、すでに執務室の魔石灯がともっていた。 ローディンは席に着いたまま、彫像のように動かない。動いているのは、書類をめくる指先だけだ。
ローディンは席に着いたまま、書類に目を通している。
顔は上げない。
ローディンは、この街の代官だ。
王の名でこの地を預かる、王国貴族の一人でもある。
俺がこの場に立っていられるのは、
側近だからでも、貴族だからでもない。
任命状はない。
身分も、平民のままだ。
ただ、代官が判断する前に必要な仕事を、
毎朝ここでやっているだけだ。
「おはようございます」
ローディンは顔を上げずに手を伸ばした。俺はその手に、一番上の書類束を滑り込ませる。
「来たか」
「ええ。こちらを」
ローディンは書類を受け取り、順に目を走らせた。
「採掘」
「掘削量はいつも通りです。配分も滞りなし。ただし、第三坑道でまた『囁き声』が聞こえるという報告がありましたが、現場監督が怒鳴り声でかき消して解決しました」
掘れた量を報告する意味は薄い。重要なのは、街の中に溜めていないかどうかだ。
魔石は集まると、地下の魔力の流れを変える。流れが歪めば、事故か、余計なものが出る。
だから掘った分は、必ず外へ流す。
「水路は」
「偏りはありません。今朝入った技師は優秀で、魔法を使わずに締め金だけで調整を終えています」
「警備はどうか」
「門前は静かです。昨夜の拘束者は泥酔者が二名のみ。警告杭を引き抜こうとして腰を痛めたそうです」
しばらく、紙をめくる乾燥した音だけが響く。
「……なら、今日は警備隊を動かす必要はないな」
「了解しました。平和な朝です」
そう、ここまでは平和だった。 代官の仕事は決断すること。俺の仕事は、決断のコストを下げること。
それが終われば、あとは現場の細かい不始末を拾いに行くだけだ。
本館を出て、代官館併設の工房へ向かう。
「物を運ぶための新しい魔法を試したい」という申請が出ていた。
小規模な実験だという話だったが、こういう時の「小規模」ほど信用できないものはない。
工房の扉を開けた瞬間、俺の長年、不備のある書類と向き合ってきた俺の勘が振り切れた。
想定していた規模じゃない。
床に引かれた刻線は一直線に外へ伸び、
作業台と炉は、その線に正確に合わせられている。
扉は開け放たれ、その先の空間まで含めて配置が組まれていた。
――流れが、もう張っている。
刻線の上だけ空気が重い。準備段階じゃない。
最初の対象を拾うところまで来ている。
俺は刻線の端に足を掛けた。確認のためだ。
この手の仕掛けは、線が何を掴むかを見ないと判断できない。
その瞬間、嫌なことに気づく。
対象指定が、ない。
「おい、フィン」
「あ、エルンさん! おはようございますっす!」
工房の若手女性魔導技師フィンが、煤けた顔で振り返った。 腕はいい。だが、ブレーキという概念を知らない。
「最初に掴むのは、何だ?」
嫌な予感がして、俺は刻線の端――本来、荷物を置くべき場所――に足をかけたまま聞いた。
「……今、そこにあるものっす!」
フィンは一瞬きょとんとして、それから満面の笑みで答えた。
「は?」
「本当は鉄塊を置く予定だったんすけど、間に合わなくて……」
思考がつながった瞬間、背筋が凍った。 この構成は、「置いたものを運ぶ」んじゃない。 「刻線上にある質量を無差別に拾う」仕組みだ。
つまり、俺だ。
「障壁は!?」
「もちろん! ガチガチに組み込み済みっす!」
止める暇はなかった。 今ここで足をどければ、行き場を失った魔力が暴発して工房ごと吹き飛ぶ。 俺が飛ぶか、工房が飛ぶか。
次の瞬間、炉の奥で空間が沈んだ。 魔力が、走った。
「ちょ――」
視界が白く弾け、床が足元から消えた。 体が真後ろへ持っていかれる。 まるで巨人に見えない手でひっぱたかれたような衝撃。
そして、冒頭に戻る。
障壁が働いているようで痛くはなかった。
だが、止まらない。
俺はグレイホルムの空を裂いていた。
障壁のおかげで怪我はないようだが、この速度だ。着地すればただでは済まない。
「……くそっ!」
俺は息を整え、最低限の魔法で方向だけをずらした。
派手なことはできない。今やるのは、速度をいじるんじゃなく、進路を変えるだけだ。
右。少し下。
地面に対して、角度をなだらかにする。
狙うのは――畑の端に積まれた麦藁の束。
農家の備蓄用麦藁だ。乾燥していて、分厚く、柔らかい。
この速度を受け止められるのは、あれしかない。
「頼むぞ……!」
次の瞬間、麦藁に突っ込んだ。
派手な音と共に、世界が止まった。 障壁が砕ける音がしたが、骨が砕ける音はしなかった。視界が金色に埋まり、息が詰まり、藁が顔に刺さる。
俺は藁の中で、咳を一つしてから、ゆっくり立ち上がった。藁の山から這い出し、肺の中の空気を入れ替えた。 髪の毛から靴の中まで藁まみれだ。
「……朝から最悪だ」
畑の向こうで、クワを持った農夫が口をあんぐりと開けてこちらを見ていた。 空から領務官が降ってきたのだ。無理もない。
俺は藁を払いながら、できるだけ威厳を保って言った。
「……すまない。この麦藁の山は、代官館が買い取る。後で請求書を持ってきてくれ」
農夫は固まったまま頷いた。
急いで工房に戻ると、フィンは床に倒れていた。
……魔力枯渇。
額に手を当てる。熱がある。
魔力を流し続けた神経が、限界を越えかけている。
「……っす……」
「喋るな。魔力枯渇だ。だから言っただろう、無茶な構成は組むなと」
フィンが、わずかに頷く。
一拍置く。
倒れたフィンから視線を外し、刻線の先をもう一度なぞる。
こんなもの、輸送には使えない。人が乗れば酔うどころか内臓が破裂する。荷物を乗せれば粉々だ。
だが――「砲台」としてなら話は別だ。 石や鉄塊を、この速度で撃ち出す。 動く標的は無理でも、城壁や砦なら一撃で粉砕できるだろう。
これは、ただの輸送実験じゃない。 兵器開発だ。
「この実験は即時凍結だ」
俺は低い声で告げた。
「え……」
「魔力消費が人の限界を超えている。それに、これはグレイホルムで扱っていい代物じゃない」
「……分かりましたっす」
フィンが力なく頷くのを確認し、俺は手早く現場の図面と記録石を回収した。 これは代官案件だ。
代官館に戻り、まずはフィンを官舎の医務室へ運ばせた。それから埃を払い、藁くずを落としてから、再びローディンの元へ向かう。
「戻りました」
「早かったな。どうした、藁の匂いがするぞ」
ローディンは鼻がいい。 俺は姿勢を正し、事務的なトーンで報告を始めた。
「判断を仰ぐ案件が発生しました。工房での実験事故です。死者はなし」
「ほう」
「負傷者一名。技師のフィンが中度の魔力枯渇でダウン。数日は使い物になりません」
「原因は」
「長距離輸送実験の暴走です。私が現場で確認しました」
一拍置く。 ここからが本題だ。
「ですが、単なる事故として処理するには、成果物が危険すぎます」
ローディンがペンを止めた。
「どういう意味だ」
「あれは輸送魔法ではありません。質量兵器です。 城壁を物理的に破壊可能な威力を確認しました。……私の体を使って」
「お前が飛んだのか」
「ええ。おかげで農家の麦藁を山ひとつ弁償することになりました」
ローディンはわずかに口角を上げたようだったが、すぐに真顔に戻った。
「……で、どうした」
「実験は凍結。資料は全て回収しました。
対人・対魔物には向きませんが、攻城兵器としての価値が高すぎます。この街で管理するのはリスクが高いかと」
「隠したか」
「いいえ、凍結です。王都へ上げる報告書には『失敗作』として記載し、技術ごと塩漬けにします。誰かが掘り起こすまで、なかったことにするのが一番です」
沈黙。 閣下は指で机を叩き、短く頷いた。
「妥当だ。その判断で進めろ」
「はっ。
では、フィンの治療費と、麦藁の弁償費用を経費で申請します」
「許可する。……麦藁は多めに払ってやれ。空から領務官が降ってくる恐怖代も含めてな」
執務室を出て、俺は大きく息を吐いた。 まだ髪の毛から藁の匂いがする。
医務室を覗くと、フィンは死んだように眠っていた。 医務官が「魔力枯渇です。神経が焼き切れる寸前でしたね」と呆れている。 叱るのは、こいつが起きて、請求書の山を見せてからでいいだろう。
……魔力枯渇。
そう呼ばれているが、実際に枯れているわけじゃない。
魔力は、人の体に溜まるものじゃない。
この世界に遍在している。
人は、それを感知し、引き込み、通しているだけにすぎない。
かつては、
魔力は体内に宿るものだと考えられていた。
使い切れば空になる。
その誤解の名残で、今でもこの状態を「枯渇」と呼ぶ。
実際には枯渇ではなく傷んでいる。
魔力を感知し、流し、制御するための器官が、だ。
神経や血管の奥にある、目に見えない部分。
流しすぎれば、擦り切れる。
無理を重ねれば、元に戻らない。
医務官が、フィンに布を掛け直す。
窓の外を見る。 太陽は完全に昇り、街が動き出していた。
今日もグレイホルムは平和だ。 警備隊が出るような事件もなければ、魔物が暴れたわけでもない。ただ、一人の事務官が空を飛び、麦藁が散らかっただけ。
「……さて、始末書を書くか」
俺は首を鳴らし、自分の机へと戻った。 英雄にはなれないが、書類仕事なら誰にも負けない。 それが、この歪んだ街での俺の戦い方だ。
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