第10話:星を冷やす風

第10話:星を冷やす風


空は、どこまでも澄み切ったコバルトブルーに戻っていた。


成層圏に展開された銀色のベールが、その役割を終えて星の塵へと溶けていく。 あんなに狂おしく世界を焼いていた魔熱は、いまや宇宙の深淵へと吸い込まれ、地球は数週間ぶりに「心地よい静寂」を取り戻していた。


「……終わったんだな」


大阪、淀屋橋。 かつてヒート・ドームの起点となったビルの屋上で、末光真大は風に吹かれていた。 その風には、もう焦げ付いたアスファルトの匂いはしない。 川面をなでて運ばれてくる、湿り気を帯びた、生命の匂いがする風だ。


「末光。貴殿の言った通りだ。空を見上げるのが、これほど救いになるとは」


隣に立つルナが、ふっと目を細めた。 彼女の銀髪が、大阪の柔らかい陽光を浴びて、穏やかに波打っている。 異世界の崩壊も止まった。魔熱の逆流が収まり、エル・ドラドにも再び氷の女神の祝福——恵みの雪が降り始めたという。


「ルナ……君も、帰らなきゃいけないんだろ」


末光の声は、少しだけ掠れていた。 ルナは、空に開いた微かな光の亀裂——最後の「窓」を見つめ、静かに頷いた。


「ああ。私の役目は、窓を閉じること。だが、忘れないでくれ。貴殿がこの星に贈った『涼しさ』は、私たちの世界でも語り継がれる聖なる風となったことを」


「……大げさだよ。俺はただ、暑いのが嫌いなだけの、しがない研究者だ」


「ふふっ。その『しがない研究者』が、二つの世界の運命を調律したのだ。誇りに思うがいい」


ルナが末光の前に立ち、騎士の礼を捧げる。 そして、彼女の姿が薄い銀色の粒子となって、空に溶け込んでいく。


「さらばだ、賢者末光。……次に会う時は、もっと涼しい世界で」


「ああ、またな。……ルナ」


彼女が消えた後の屋上には、どこからともなく飛んできた、一枚の小さな銀色のフィルムの破片だけが、キラキラと輝きながら舞い落ちてきた。


一ヶ月後。 SPACECOOL株式会社の実験室。


「……あー、やっぱり大阪の夏は暑いな。物理的な熱は引いても、この湿気だけはどうにもならん」


末光は、新しく張り替えられた窓際で、ソーダ味のアイスキャンディーを齧っていた。 口の中に広がるツンとした甘さと、脳を刺激する氷の冷たさ。 五感が、ようやく平和な日常の解像度を取り戻していた。


「末光さん! またサボってアイスですか。次の製品化スケジュール、パンパンですよ!」


佐藤が、相変わらずの勢いで書類の山を抱えて入ってきた。 彼の首には、新しく開発された「SPACECOOL・ネッククーラー」が巻かれている。


「サボってない。これは、次なる課題への『入力(インプット)』だ」


「はいはい、そう言っておけばいいと思って。……で、次は何を企んでるんですか?」


末光は、アイスの棒をゴミ箱に投げ入れると、机の上に広げられた真っ白な設計図に、一気にペンを走らせた。 そこには、放射冷却の理論を応用した、全く新しい「二酸化炭素固定化装置」の構想が描かれ始めていた。


「熱を捨てられるようになったなら、次は、この星の空気そのものを洗わなきゃな。……ルナに笑われないように、もっと面白いものを作らないと」


末光のペン先が、サラサラと心地よい音を立てる。 設計図の端には、かつてルナが持っていた剣の紋章が、小さな落書きのように刻まれていた。


「……さて。世界を冷やすのはもう済んだ。次は、世界を『守る』仕組みを編むぞ」


窓の外では、入道雲が湧き上がっている。 けれど、その下を吹き抜ける風は、どこまでも涼やかで、優しい。 末光真大の瞳は、再び、遥か空の向こう——無限の可能性が広がる宇宙の窓を見つめていた。


(完)


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『コズミック・クーラー:星を冷やす者』 春秋花壇 @mai5000jp

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