第2話:宇宙への窓
第2話:宇宙への窓
昨日の「熱の歪み」が幻覚ではなかったことを証明するように、実験室の床には、異常な熱量で焼き切れた電源コードが無惨に転がっている。しかし、末光真大の意識は、そんな惨状にはなかった。
「……見える。やはり、ただの反射じゃない」
末光は、昨夜の戦いで銀色から「深淵の蒼」へと変色した009号フィルムを、顕微鏡ではなく、ただの裸眼でのぞき込んでいた。 本来、放射冷却素材は特定の波長——大気が熱を通しやすい「大気の窓」と呼ばれる8~13μmの領域——を狙って熱を放出する。だが、このフィルムの表面は、物理学的な常識を超えていた。
「末光さん、朝からその顔……怖いですって。コーヒー、ブラックでいいですよね?」
佐藤が、クマのひどい顔で入ってきた。彼もまた、昨日の光景が頭から離れず眠れなかったのだろう。
「佐藤、これを見てくれ。角度を変えて、焦点をフィルムの『奥』に合わせるんだ」 「奥? 何言ってるんですか、厚さ数ミリのシートですよ……うわっ!?」
末光に促され、フィルムを覗き込んだ佐藤が、椅子ごとひっくり返りそうになった。 「な、なんですかこれ……星? 銀河? フィルムの中に、宇宙が詰まってる……」
「そうだ。俺たちは今まで、このフィルムを『熱を捨てるための鏡』だと思っていた。だが違う。これは、特定の次元へと繋がった『レンズ』なんだ」
末光の指先が、冷え切ったフィルムの表面をなぞる。 指先に触れる感触は、滑らかな樹脂のはずなのに、意識の裏側では凍てつくような氷原の風が吹いている。静寂。耳の奥が痛くなるほどの、絶対的な無音。
「熱を捨てている場所は、単なる成層圏や真空の宇宙じゃない。見てみろ、この熱の流れ(ベクトル)を。放出された熱エネルギーが、まるで誰かに導かれるように、一点に向かって収束している」
末光は、モニターに映し出された赤外線解析チャートを指差した。 本来、放射された熱は拡散するはずだ。しかし、009号が放った熱は、フィルムの奥にある「青い星」へと吸い込まれている。
「……誰かが、食べているのか? 地球の熱を」 「食べる、というよりは……欲しているように見えるな」
その時、フィルムの表面が波打った。 水面に石を投じたような波紋が広がり、深淵の蒼の中から、一つの「声」が響いてきた。それは鼓膜を震わせる音ではなく、脳髄に直接、冷たい雫が滴るような感覚だった。
『……もっと……もっと、寄越して……。その熱が、私の凍えた世界を……溶かす糧になる……』
「ひっ! い、今、誰か喋りませんでした!?」 佐藤が震える手で十字を切る。 末光は逃げなかった。それどころか、フィルムに顔を近づけ、その奥にある「瞳」を探した。
「あなたは誰だ。この熱を、何に使っている?」
問いかける末光の額に、冷や汗が滲む。 再び、波紋。今度は、フィルムから薄青い霧が溢れ出し、実験室の温度を一気に氷点下まで引き下げた。
『私は……アイナ。果てなき氷の夜に閉ざされた、ニヴルヘイムの看守……』
霧の中に、透き通るような白い肌と、吹雪のような銀髪を持つ女性の幻影が浮かび上がった。彼女の瞳は、009号フィルムと同じ、深い宇宙の色をしていた。
「氷の女神……。異世界の、熱の収穫者か」 末光の声は、驚きよりも納得に満ちていた。 「俺たちが『ゴミ』として捨てていた熱が、あなたの世界では『命の火』になる。そういうことか」
『そうだ、名もなき発明者よ。お前が窓を開けた。この星に満ちる余剰な熱が、私の凍土を癒やし、狂った魔力のバランスを整える……。だが、気をつけろ。窓を開けるということは、光を入れるだけではない。闇を招くことでもある……』
女神の幻影が、苦痛に歪んだ。 同時に、実験室の警報が鳴り響く。
「末光さん! 009号の数値が跳ね上がってます! 逆流だ……宇宙から、こっちに何かが入ってこようとしてる!」 「くっ、ゲートが不安定なのか!?」
フィルムの中央が、真っ赤に熱を帯び始めた。 「大気の窓」を無理やりこじ開けようとする、圧倒的な質量。 バキバキと音を立てて実験室の床が凍りつき、一方で天井は熱で溶け出すという、異常な熱力学的混沌(カオス)が渦巻く。
「このままじゃ実験室が吹き飛ぶ! 末光さん、フィルムを遮断して!」 「できない! 今閉じたら、向こう側の女神はどうなる!? 彼女の世界を救うための熱が、爆発に変わるぞ!」
末光は、剥き出しの手にフィルムを巻き付けた。 皮膚が焼けるような熱さと、骨まで凍るような寒さが同時に襲いかかる。激痛に意識が飛びそうになるが、末光は歯を食いしばり、視界の隅に見える「熱の方程式」を必死に書き換えた。
「捨て場(サイト)を固定する……! 座標を、女神の居る氷点下の中心へ……。行けえええ!」
末光の叫びとともに、フィルムから一筋の銀光が天に向かって突き抜けた。 衝撃波で窓ガラスがすべて砕け散り、静寂が戻る。
……。 ……。
「……生きてますか、末光さん」 佐藤が、ひっくり返ったデスクの下から恐る恐る顔を出した。
末光は、ボロボロになった白衣のまま、屋上へ続く階段の入り口に立っていた。 その手には、再び銀色の輝きを取り戻したフィルム。
「ああ……なんとか。でも、確信したよ」
末光は、割れた窓から見える、大阪の澄み切った空を見上げた。 「このSPACECOOLは、ただの省エネ素材じゃない。二つの世界を繋ぎ、熱を交換することで、両方の滅びを止める……『星の調律器』なんだ」
「調律器、ね……。でも末光さん、さっき女神が言ってましたよ。『闇を招く』って。あれ、フラグじゃないですよね?」
佐藤の不安を裏付けるように、末光の背後の影から、一人の女性が音もなく姿を現した。 銀色の鎧に身を包み、背中には巨大な剣。その瞳には、先ほどの女神と同じ「宇宙の色」が宿っている。
「……あなたが、この窓を開いた賢者か」
彼女の言葉に、末光は静かに振り向いた。 新しい風が、実験室に吹き込む。それは都会の熱気を含まない、異世界の森のような、清々しく、それでいて峻烈な風だった。
「私の名はルナ。異世界からの熱波を防ぎ、この窓を守るために遣わされた者」
末光真大の「研究」は、もはや一企業の実験室で収まる規模を超えていた。 宇宙を冷やすための戦いが、今、本格的に幕を開けたのだ。
第2話 完
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