第1話:ゼロ・エネルギーの輝き

第1話:ゼロ・エネルギーの輝き


第1話:ゼロ・エネルギーの輝き

セミの声が、もはや鳴き声ではなく金属を削る不快な摩擦音のように鼓膜を刺す。大阪、淀屋橋。コンクリートの照り返しは陽炎となって視界を歪め、吸い込む空気は肺を焼くほどに熱い。


「……まだだ。まだ、逃がしきれていない」


SPACECOOL株式会社の一角、プレハブを改造したような実験室で、末光真大は独り言ちた。ワイシャツの襟元は汗で変色し、肌には湿った熱気が纏わりついている。しかし、彼の瞳だけは、氷のように鋭く一点を見つめていた。


目の前の試験架台には、一枚の銀色のフィルムが貼られている。 一見、どこにでもあるアルミホイルのようだが、その表面は鏡よりも深く、それでいて光を反射しているとは思えない不思議な透明感を湛えていた。


「末光さん、まだやってるんですか。もう37度超えてますよ。脳が茹だりますって」


同僚の佐藤が、ぬるくなったスポーツドリンクを差し出しながら入ってきた。首に巻いた保冷剤はすっかり溶けて、水滴が床に滴っている。


「佐藤、見てくれ。この試作、009号。さっきから表面温度が下がり続けている」 「はは、また冗談を。この直射日光ですよ? 鉄板なら目玉焼きが焼ける」


佐藤が茶化しながら、非接触型の温度計をフィルムに向けた。トリガーを引いた瞬間、佐藤の顔から余裕が消えた。


「……えっ? 15度? いや、10度……おい、末光さん、壊れてるぞこれ。外気温より20度以上低いなんて、物理的にありえない」 「壊れていない。これが『大気の窓』だ」


末光は震える指先で、フィルムの端に触れた。 指先から伝わるのは、ただの「冷たさ」ではなかった。それは、熱を奪われるという感覚を通り越し、細胞の震えが止まるような、宇宙の深淵に直接触れたかのような**「静寂」**。


「熱は、エネルギーを使って冷やすものじゃない。ただ、あるべき場所へ『逃がしてやる』だけでいいんだ。空のずっと向こう、大気が遮らない波長の隙間を通って、絶対零度の宇宙へ……」


末光の声には、祈りにも似た狂熱が宿っていた。 その時だった。


「ひっ……!? な、なんだ、空が……!」


佐藤の悲鳴に近い声に、末光は顔を上げた。 窓の外。真っ青だったはずの大阪の空が、どす黒い赤紫色に変色していた。それも、雲の色ではない。空間そのものが、古い映像フィルムが熱で溶けるように、ぐにゃりと歪んでいるのだ。


「暑い……! なんだこれ、急に……っ!」


佐藤が喉をかきむしる。実験室の窓ガラスが「ピシッ」と悲鳴を上げた。 外では、街路樹の葉が一瞬で茶色く変色し、道行く人々が次々と膝をついている。逃げ場のない熱波——「ヒート・ドーム」などという気象用語では説明できない、物理的な暴力としての「熱」が街を飲み込もうとしていた。


「……来る。あそこから、溢れ出しているんだ」


末光は直感した。この熱は、地球のものではない。 空間の歪みの中心、その裂け目から、見たこともないほど禍々しい、オレンジ色の「陽炎の腕」が伸びてくるのが見えた。


「末光さん、逃げましょう! ここも危ない!」 「いや、今これを止める手段を、俺たちは持っているはずだ」


末光は、架台から009号のフィルムを引き剥がした。 手にした瞬間、フィルムが共鳴するようにキィィィィンと高音を発する。


「熱を捨てる場所なら、もう見つかっている。空の向こうだ!」


末光は実験室を飛び出し、ビルの屋上へと駆け上がった。 屋上は地獄だった。立っているだけで靴の裏が溶けそうな熱気。空に浮かぶ「熱の門」からは、生物の生存を許さない魔的な熱波が、津波となって降り注いでいる。


「行け……宇宙へ還れ!」


末光は、手に持ったフィルムを空へ向けて高く掲げた。 その瞬間、フィルムの表面が爆発的な銀色の輝きを放った。


それは光ではない。それは「完全な欠如」の輝き。 降り注ぐ赤紫色の熱波が、末光の掲げるフィルムに触れた瞬間、吸い込まれるように消滅していく。フィルムが巨大な掃除機のように、空間に溜まった熱を、成層圏を越えた先にある「無」へと放り投げていた。


末光の視界に、一瞬だけ見えた。 フィルムの向こう側に広がる、冷たくて美しい、静謐な星々の海。


「……嘘だろ。本当に、冷えていく……」


追いかけてきた佐藤が、呆然と立ち尽くす。 末光の周囲数メートルだけ、雪山のような清涼な風が吹き抜けていた。 空の歪みは、銀色の盾に阻まれ、行き場を失って霧散していく。


やがて、空の裂け目が閉じる直前。 末光は、その向こう側に「誰か」の瞳を見た気がした。 青く凍てついた、悲しげな少女の瞳を。


熱波が去り、再び不快なセミの声が戻ってくる。 しかし、末光が持つフィルムだけは、真夏の太陽を跳ね返し、誇らしげに、そして静かに、冷たい光を放ち続けていた。


「……佐藤。これは、ただの素材じゃない」


末光は自分の手のひらを見つめた。 そこには、未知のエネルギーに触れた熱い痺れが残っている。


「この銀のベールは、別の世界とつながっている。俺たちは……とんでもない扉を開けてしまったのかもしれない」


大阪の空は、何事もなかったかのように青く戻っていた。 だが、末光真大の物語は、この「ゼロ・エネルギー」の輝きとともに、加速を始めたのだ。


第1話 完


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