水道場の陽炎
整理体操が終わり、解散の号令がかかる。
俺は渇いた喉を潤すために、グラウンド脇の水道場へと向かった。
蛇口を捻り、冷たい水を掌に受ける。顔を洗おうと顔を上げた時、隣の蛇口が勢いよく回された。
バシャッ、と豪快な水音が響く。
横を見ると、恵美子だった。
彼女は男子顔負けの勢いで顔を洗い、濡れた髪をかき上げながら、プハッ、と大きく息を吐いた。
滴る水滴が、火照った頬の上を滑り落ちていく。
至近距離で見ると、彼女の肌はやはり上気しており、そこから立ち上る熱気が俺の頬にまで伝わってきそうだった。
「……お疲れ」
俺は努めて平静を装って声をかけた。
恵美子はタオルで顔を拭きながら、チラリとこちらを見た。濡れた睫毛が重そうだ。
「お疲れ。さっきはごめんね、怒鳴って」
「いや……お陰で目が覚めたよ。つーか、あんなペースで走ってバテないのかよ」
「止まったら寒くなるでしょ。走り切った方が効率いいの」
彼女は事もなげに言うと、濡れた首筋をタオルで乱暴に拭った。
その動作に合わせて、体操着の襟元がわずかに緩む。
一瞬、脳裏にさっきの背中――汗で透けたホックと、素肌の生々しい記憶――がフラッシュバックした。
俺は慌てて視線を彼女の顔から外し、無意味に蛇口の先を見つめた。
(こっちは寒くて死にそうなのに……)
思わず口をついて出たのは、そんな負け惜しみのような言葉だった。
「寒くないのかよ、それ。中、なんも着てないだろ」
言ってしまってから、俺は心臓が止まりそうになった。「中、なんも着てない」という言葉が、あまりにもそのまんまの意味を持ってしまうことに気づいたからだ。
だが、恵美子は俺の動揺になど気づきもしない。
彼女はジャージの袖を通すこともなく、体操着の裾をパタパタと扇いだ。
「暑いもん」
短く言い放つと、彼女はニッと笑った。
それは、冬将軍ですら裸足で逃げ出しそうな、底抜けに明るくて、強い笑みだった。
「私、燃費悪いんだよね。動くとすぐ沸騰しちゃうから。……じゃ、先戻るね」
彼女はタオルを首に巻き直すと、軽やかな足取りで校舎の方へと駆けていった。
その後ろ姿からは、もう湯気は見えなかったけれど、俺の目にはまだ陽炎が残っているような気がした。
俺は自分のジャージのファスナーを喉元まで上げながら、ため息をついた。
「沸騰しちゃう、かよ……」
あんな華奢な体のどこに、そんなボイラーが隠されているんだか。
俺は冷たくなった両手をポケットに突っ込み、彼女が残していった熱気の残り香の中、しばらくその場から動けなかった。
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