痛みを感じない日


 朝、目が覚めたとき。

 違和感は、ほとんどなかった。


 いつも通り体を起こして、

 いつも通り息をして、

 ――ただ一つだけ、違う。


「……痛く、ないな」


 指先をつねっても、

 爪を立てても、

 感触はあるのに、痛みだけが欠けている。


 不安より先に、

 理解が来た。


「今日は……

 そういう日か」


 能力の名前は分からない。

 でも、内容ははっきりしていた。


 痛みを感じない。



---


「おはようございます、先輩」


 学食。

 相沢しずくは、いつもより早く来ていた。


 ノートも、スマホも出していない。

 代わりに、こちらを見る目が静かだ。


「今日は、確認に時間がかかりませんでした」


「そっか」


 それだけで、

 十分だった。


「先輩」


「ん?」


「今日は、

 痛覚の反応が観測されません」


 はっきりと言われる。


「……やっぱりか」


「はい」


 相沢は、少しだけ息を整えてから続けた。


「この状態は、

 一時的です」


「一日限り、ってやつだな」


「その通りです」


 その会話は、

 もう“異常”じゃなかった。



---


 相沢は、

 俺の方をまっすぐ見て言った。


「先輩。

 この状態なら――

 最適化が進められます」


 言葉の意味は、

 すぐに分かった。


 分かってしまった。


「……必要、か?」


 声は、

 思ったより落ち着いていた。


「はい」


 即答だった。


「今後の運用を考えると、

 今日しかありません」


 理由も、

 ちゃんと用意されている。


「反射的な動きが消えます」

「保管時の安定性が上がります」

「供給にノイズが入りません」


 どれも、

 今まで聞いてきた言葉だ。


 だから――

 納得できてしまう。


「痛くない、んだよな」


「はい」


「終わった後も?」


「痛覚が戻る頃には、

 処理は完了しています」


 処理。


 その言葉が、

 もう怖くなかった。



---


「先輩」


 相沢は、

 少しだけ声を柔らかくする。


「無理だと思ったら、

 止めます」


 その一言で、

 十分だった。


「……任せる」


 俺は、

 いつもと同じ言葉を使った。


「相沢に」


「ありがとうございます」


 それは、

 いつも通りのやり取りだった。



---


 詳しいことは、

 あまり覚えていない。


 視界が、

 途中から下を向いていたこと。


 体が、

 だんだん“動かなくなっていった”こと。


 そして――

 本当に、痛くなかったこと。


 怖さはあった。

 でも、苦しさはなかった。


 それが、

 決定的だった。


 もし痛みがあったら、

 叫んでいたかもしれない。


 止めて、と言ったかもしれない。


 でも今日は、

 そういう日じゃなかった。



---


「……終わりました」


 相沢の声がする。


 俺は、

 自分がどんな状態かを

 確かめようとしなかった。


 確かめなくていい、

 と思った。


「先輩」


「ん……」


「ちゃんと、

 機能しています」


 機能。


 その言葉で、

 すべてが説明された。



---


 視界が暗くなる。


 布の感触。

 囲まれる感じ。


 揺れは、ほとんどない。


「運びやすくなりました」


 その声は、

 どこか安心していた。


「これで、

 安定します」


 ファスナーの音が、

 静かに閉じる。


 俺は、

 小さく息を吸った。


 ――痛くない。


 ――苦しくない。


 ――問題は、ない。


 そう思えた。


 それが、一番の問題だと

 気づけないまま。



---


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