第5話 図書館
決行する日になった。
図書館に行って絵本を借りる。
それだけのことだが、私にとって特別な日になるはずだ。
絵本からスタートする。
一歩踏み出すんだ。
血流が普段より早くなっている気がしていた。
日曜日、AM10:00予定通りの時間。
シャワーを浴びて身支度を済ませる。
前の日に用意しておいた手作りの生地のままのクロワッサンをオーブンに入れ大好きなカフェラテの豆を引く。
すべてメモに書いておいた。
その一つ一つは私にとっての斧を研ぐ行為だった。
これらの行動はすべて自分で決めたことだ。
これはただの朝食ではない。
心の臨戦体制に入る儀式だった。
自分にとって意味があるのならそれは斧を研ぐという行為だ。
人にどう見えるかは関係ない。
今日は私の人生の分岐点になるはずだ。
ゆっくりと食事を済ませて、鏡の前に立って歯を磨き、保湿ミストとリップクリーム。
拳で軽く心臓のあたりを二回小突いて
「よし!」
と小さく声に出した。
そのまま玄関に行って昨日迷いに迷った末に買った新品の黒の革のショートブーツに足を入れる。
もう一度深呼吸。
優しく玄関のドアノブを握っていつもよりゆっくり開けた時、地球の引力が半分くらいになったと感じた。体が軽くなった気がする。
不思議だ。
ドアと同時に自分の心の扉を開けた感覚があった。
丁寧にドアを閉め鍵をかけた。
するとその時の音が
[行け!]
と聞こえた。
駅前の図書館に行くだけなのに笑ってしまう。
家を出て少し歩いくと横断歩道がある。
渡ろうとした時、ふわっと優しい風が吹いてきた。
街の雰囲気が違って見える。
何故か小学校の入学式のような新鮮な緊張感が蘇っていた。
1週間という準備期間の大切さと思いの充電期間の力を実感していた。
図書館の中に入ると新しい木製の綺麗な床になっていた。
その上を新しいショートブーツで歩くと心地いい音が小さく響いて気持ちいい。
入り口を入ってすぐのところに本の返却口がある。
なんとそこに数学のサラ先生がいた。
びっくり!!
さら先生は抱えるようにしていた2冊の本を返却するところだった。
2冊ともガリレオガリレイと書いてあるのが見えた。
またまたびっくり!!
偶然ではないような気がした。
「あら、図書館に来るような感じじゃないね。
デートに行くような雰囲気だね。」
優しい笑顔で話しかけてくれた。
ショートブーツ以外はいつものままだったのに、私の心の臨戦体制が出てしまっているのだろうか?
私は咄嗟に、
「ガリレオのことを少し調べたくて...」
と上擦った声で思わず言ってしまった。
まったくの嘘ではないが、わざとらしくなってしまい恥ずかしい。
「そうだったの。私は数学のことで疲れると、宇宙や天体のことを考えると頭がほぐれるような気がしてたので...
前からガリレオの地動説について読んで見たかったの。
これ今日返すところだから、あなた借りれば?面白かったよ。」
「えっ、あっ、はい。」
と言ったが、まだガリレオに決めたわけではない。
それに子供用の絵本みたいなのに決めている。
そのために大学の図書館ではなくここに来たのだ。
計画通りにやりたい。
さら先生は目がとても綺麗だった。
近くで見てそう思った。
目が綺麗なだけじゃない。
眼差しがなんとも言えないくらい美しい。
さら先生は急いでいるようで、
「じゃ、またね」
と言ってエレベーターの方に向かって行った。
後ろ姿がとても美しかった。
ガリレオの絵本からスタートしてみようかと心が傾いている。
さら先生が読んでいたからだけではない。
準備期間が引き寄せた導きかもしれないと感じたのだ。
図書館の奥に入って辺りを見回す。
ガリレオの絵本を探していると絵本ではなかったが、ガリレオの名言と書いてある本が目に留まった。
開いてみると、ある文章に心が釘付けになる。
[数学は神が宇宙を書いたアルファベットだ。]
数学と宇宙?
何の関係があるんだろう。
この世界は偶然に出来たのではなく、設計者がいて、目的を持って、計算されて創造されているのだとガリレオが語っていたのではないだろうか?
映美はわかったようなわからないような話には深入りしないと決めていたが、心が素直に反応していることは受け取っていくことにしていた。
決めた!
最初の一歩はガリレオに決定だ。
ニュートン
ヘレンケラー
モーツァルト
野口英世
この4人は次の機会にする。
ガリレオの宇宙のお話というのとガリレオおじさんの冒険という本を見つけた。
二冊とも借りようと思ったが、その場で読み終えてしまった。
二冊読むのに十分もかからなかった。
ほとんど絵だけなのだ。
ガリレオおじさんが自分で望遠鏡を作って地球が回っていると言って、いろんな人から怒られてしまったということが書いてあった。
少し手応えがなかったが、挿絵がかわいかったので、二冊とも借りることにした。
計画通りに最初の一歩は踏み出した。これで満足すべきだ。
私はやったのだと自分に言い聞かせる。
家に帰って、二冊の本を何度も読み返してみた、というより可愛い挿絵を何度も見ただけ。
静けさと落ち着きが私を包んでくれていた。
「よし、心は決まった。」
真剣に聖書と向き合うことに決める。
何かを掴めたわけではない。
まだ何も分かってはいない。
簡単に聖書は御伽話だという結論を
出すべきではないことがわかったのだ。
私が1週間いろいろ準備して、絵本を見て、そんな程度で理解できる世界ではない。
そのことがわかった。
それだけわかれば収穫はあったと言える。
だから私は透明な態度で聖書に向き合っていくことに決めた。
何故か心が落ち着いている。
正しい決断ができた気がする。
何だか嬉しい。
*
さら先生と図書館で会った日から二週間ほど経った頃だった。
もうすぐ冬休みになる。
今日の最後の授業はサラ先生の数学だった。
いつもと何か雰囲気が違っていたように感じていた。
授業が終わる五分前になって突然、
「皆さんに報告があります」
と聞かされる。
悲しい予感がした。
「来年の四月に結婚することになり、三月いっぱいで、退職することになりました。」
「そんな!!」
映美にとって尊敬できる人はこの大学にはさら先生しかいなかった。
知らない間にさら先生の存在が心の支えのようになっていたのだ。
命綱が断ち切られてしまう。
そんな恐怖を感じた。
適応障害から完全に立ち直ったとは言えない状態で、まだ人間が怖いし、時々わけのわからない不安に襲われることがある。
心の中で何かあったらサラ先生に相談してみようと密かに考えていたのだ。
さら先生の婚約者はアメリカ人で、航空技師。
四月からボストンに住むことになっていると聞かされる。
ショックだった。
貧血のような、気が遠くなるような感じがしていた。
しゃがみ込みたい気分を必死で耐えていた。
さら先生にいろんなことを聞いてみたかったのに。
影響を受けたかったのに。
あの図書館で一度だけしか個人的に話したことはなかったが、言葉が出ないほどの衝撃を受けてしまう。
それほどさら先生は映美の心の拠り所になっていたのだ。
しばらく放心状態が続いたが、
少し落ち着いて考えてみると、退職されたらもう講師と生徒の関係ではなくなる。
それは悪いことではないかもしれない。
年齢は離れているが、友達になってもらえるかもしれない。
そんな希望が頭をかすめる。
お友達になって下さい!
まともにこんなことを言えば軽く受け取られてしまう。
そんなんじゃないんだ。
18歳の女の子を相手にしてくれるかどうか心配は心配だ。
けど私の本当の気持ちだ。
先生と親しくなりたい。
どこに住んでいてもネットで簡単に繋がっていける。
少し冷静になってみた。
さら先生のどこに惹かれているのか?
どこが好きなのかを考えてみた。
何故この人と親しくなりたいのか?
それはさら先生の話し方と眼差しかもしれない。
映見は年齢に似合わない鋭い洞察力を持っていた。
人間は何を見つめ、何を信じているかによってその表情は明らかに違ってくるはずだ。
人は信じていることと矛盾する生き方は出来ない。
私は人間は死んだらすべてが終わるとも思っていないが、天国の存在を信じているわけでもない。
なんの確信も持っていない。
だから何か信じるものを持っている人と何も信じることが出来ていない自分の違いに敏感なんだと思う。
死をもってすべてが終わる、意識も記憶も感覚もすべて無になると思っている人はそのように生きていく。
そしてそのような眼差しを持つ。
それ以外の解釈や生き方はその人の死生観が許さない。
さら先生の顔を思い浮かべていたらあることを思い出した。
入学式の時、挨拶文の裏に小さく書いてあったイエスキリストの言葉だ。
「私を信じるものは死んでも生きるのです。」
さら先生に私を惹きつけるものがあるとするなら何だろう?
外見だけではない。
内側にある何かだ。
そこまではわかってきた。
静かに目を閉じて自分の心の中を覗き込む。
さら先生が持っている死生観しか思い当たらない。
まず間違いなくキリスト教の信仰者だ。
映見の直感が叫んでいた。
死んだらすべて無くなるという死生観からはあの表情が生まれるとは思えない。
何かが見えている眼差しだ。
さら先生を見ているとそう感じる。
友達ではなく親友になりたい。さら先生から影響を受けたい。
映美の心の底に根を張った(尊敬できる親友が欲しい)という願いが、押さえ込まれたマグマのように吹き出し口を探していた。
サラ先生のIDもアドレスも何も知らない。
でも行動を起こさなければ何も始まらない。
その時、胸の奥から何かが突き上げてくるような懐かしい感覚があった。
子供の頃から時々感じてきた内側からの促しだ。
いつも以上に強かったのではっきりわかった。
内側の声に心の中で声を出さず
「はい。」
と答えた。
自分の中だけのルールで内側からの声に対して「はい」と一度声に出したら絶対あとには引かないと決めている。
迷いはない。
さら先生に手紙を書いて直接手渡そう。
退職すると聞かされたショックの大きさが大胆な行動を後押ししていた。
決めた。絶対やる!
お友達になって下さいとストレートに言おう!
くどくど言わない方がいい。
聞きたいこともある。
クリスチャンかどうか。もしそうなら、キリスト教信仰について、先生から教えてもらいたい。
映美の勘では間違いなくクリスチャンだ。
私の勘はほぼ当たる。
明日手紙をさら先生に渡す。
時間を空けてはダメだ。
明日やる!
絶対やる!
すぐ行動する。
便箋ではなく、いつも使っているノートに書いた。
さら先生
この前、図書館であった五十嵐映美です。
今日、退職されて結婚されることを聞きました。
おめでとうございますというべきだと思いますが、本当の気持ちはとてもショックで寂しいです。
さら先生はクリスチャンですか?
もしそうなら、私にキリスト教のことを教えてくれませんか?
それと、もし良かったらお友達になっていただけませんか?
ボストンに行かれてもラインもあるし、距離はあっても先生とお友達になりたいんです。
お願いします。
お友達になって下さい。 五十嵐映美
*
映見は予定通り、ストレートすぎるくらいの飾らない手紙を書いた。
親友という言葉は書かなかった。
ひと回り以上違うので失礼に思えたからだ。
文章を整えようとしたりすると行動できなくなるので、一気に書いて読み返す事もしなかった。
翌日早く手紙を持って正門前でサラ先生を待ち構える。
胸が高鳴った。
自分の行動についていけない感じがする。
映見は何をするにも慎重で時間をかけて十分考えてから一歩を踏み出すタイプだ。
しかし、今回は自分がちがう人間になってしまったように感じていた。
さら先生が見えた。
正門に向かって歩いてくる。
門まで50メートル手前のところくらいまで早足で駆け寄っていった。
正門のところだと誰かに見られて何を渡していたのかと聞かれるかもしれないと思ったのか自分でもよくわからない。
秘密にしなければいけないことでもない。
少し息が切れたままで言った。
「ご結婚おめでとうございます。
これ読んでください。」
すぐ校舎に向かった。
ドックンドックン心臓が唸りを上げて止まらない。
(それでいい。それでいい。)
内側なる声が聞こえていた。
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