第3話 大学の入学式

そして1年後、私は本当に第1志望の大学に合格した。


奇跡って本当にあるんだ。

この世は奇跡で満ちているという言葉を聞いたことがあったが本当だと思う。


しかし、記憶するために繰り返さなくても一瞬で覚えてしまうという能力は大学合格発表の日を境に次第に失せていった。

普通になっていったのだ。


それでも私は少しも悲しくなかった。

奇跡は奇跡として本当にあるのだと体験できたことは取り去られることのない財産として私の心に刻まれている。

それで十分だった。

私は静かな満足に満たされていた。


消えていった特別な能力を惜しむことは不思議なほど全くなかった。

私の人生に必要なものであればそれは与えられ、そうでなければ消えてゆく。


あの奇跡のような能力が与えられたままだと私の心も身体も焼き尽くされて崩壊していったに違いない。

そう感じていた。

それほど強烈な能力だった。


そしてそれは普通でいられることの喜びになっていった。

本当に不思議な季節だった。

誰にもわかってもらえないと思う。


しかし、3年経っても中学卒業間近のあの事件の後遺症は完全には癒やされてはいない。


人間関係に於いて不安と恐れに今でも心が乗っ取られるような時があるのだ。


特別なことがない時でも、突然言葉にできないほど怖い感覚に捕まる時が今も私を苦しめている。


そんな時はしばらくその場でしゃがんで、気分が良くなるまでじっとしている。


まるで自分が小さな虫になったようにじっとしていると少し気持ちが楽になってくるのだ。


そして心が落ち着いてくると、ゆっくり立ち上がり、いつも持ち歩いている水筒のハーブティーを飲むことにしている。


焦って早く気分を治そうとするとうまくいかないことがわかってきた。


まだそんな状態なので、人間関係がスムーズにはいかない。


私はあの出来事で、友人ではなく親友と呼べる関係に憧れるようになっていった。


私は友人という関係ではまだ信頼しきれない気がするんだと思う。

だから深く信頼できる親友が欲しいと思ってしまうのだろう。


友人と思っていた子が、いとも簡単に豹変したことが今でも忘れられない。

あの信じられないような変わりぶりが恐ろしい。


あの男子生徒らの内側にある残虐性も今も怖くてたまらない。


だから私は友人ではなく尊敬できる親友を持つことを渇望するようになっていった。

その思いはますます強くなる一方だった。





大学に入って5か月目。

ひとりの時間が多い。やっぱり少し寂しい。


でも私はこの大学に入学できて本当に良かったと思っている。

ここには自由な雰囲気があって息苦しさというものがない。


留学生も多く、学食でも私のようにひとりで食べている生徒も少なくない。

ひとりでいることが目立たないのが嬉しい。


これが私の心に貴重な安心感を与えてくれている。


グループに属さなければ弾かれているという高校の時のような雰囲気がまったくない。


親友はできる時はできると思うことにしよう。

焦らないでいたい。


私のようにあまり社交的でない人間にはこの大学はとても心地いい。

この大学の包んでくれるような落ち着いた感じが大好きだ。


大学の正門にはどっしりとした格調高い洋風独特の門構え。

天井の高い校舎が正門を挟んで両側に連なっているのも圧巻だ。


初めて見た時、日本じゃないような感覚がして圧倒されたのを覚えている。


正門の前には敷地を贅沢に使った広く長い土の道。

両側には等間隔に並ぶ大きな樹木が生徒を招くように構えている。


この舗装されていない土の道が気に入っている。

常緑樹の落ち葉が風に運ばれて、静かな音をたてて滑るように転がる様は

見ているだけで心が解放されるようだ。


夕暮れになると、あたり一面琥珀色に染まる時間帯があり、目の覚めるような景色。

大好きだ。





今日の授業はすべて終わりだ。

ほっとする帰宅前のひと時。


いつものようにひとりで自販機の前でコーヒー牛乳を飲んでいた。


この自販機はまるでタイルスリップして1台だけ時代に取り残されたように大学の中の人通りの少ない死角になっているような場所にある。

昔ながらの瓶だけの型の古い自販機だ。


普通の自販機は学食の建物の中にたくさん並んであるのにいつも不思議に思っていた。

懐かしい瓶の口当たりとこの甘さが何とも言えない。


フルーツ牛乳かコーヒー牛乳のどちらかを1日に1本飲んでしまう。

私は風通しの良いこの自販機の前が気持ちを落ち着かせてくれる大好きな場所になっている。

帰宅前の小さなストレス解消の空間だ。





そこへ時々見かける女の子が話しかけてきた。


「この自販機の前、いつもいい風が吹いて気持ちいいね」


「そうだね」

軽く言葉を返した。


彼女もコーヒー牛乳を買っていた。

名前は城之内ひより。

同じ18歳で今年入学したばかりの1回生。


最寄りの駅が同じなので、電車でよく顔を会わす。

たまに軽く話す程度なので私の心の負担にはなっていない。


少しずつ誰かと会話しながら人を恐れないようになっていきたい。

ひよりとは少し会話をする程度で友人という関係ではない。


ひよりの家は裕福で、余裕のある生活ぶりだが、私は少し節約を心がけての毎日だ。


ひよりが言う。

「祈りの時間だるいよね。クリスチャンだけ集めてやればいいのに。

まあ、形だけのことだから別にいいけど...」


私は少しちがう。

「私もクリスチャンじゃないけど、別にいやじゃないよ。聖書の話も聞かされるけど苦痛でも何でもない。

これから留学生とも話す機会があると思うし、聖書の知識も少しは必要だと思うよ。」


ひよりが少し頷いて、

「まあね。そういう大学だからしょうがないか...」


映美はひよりとはなんか合わないと話すたびに思ってしまう。


そんなに嫌ならこんな大学に来なければいいのにと思っていたが、口に出したことはない。


それから1週間ほど、ひよりと会わない日が続いていた。

電車で顔を合わすこともなかった。


そして今日、久しぶりにひよりが声をかけてきた。

少し大人びたメイクになっていたように感じる。


「私、彼ができたの」

嬉しそうに話しかけてくる。


ひよりは少し自分中心なところがあり、喋り出すとまわりが見えなくなることがあるみたい。


「彼は去年大学を卒業して、大手のアパレルメーカーで仕事してるの。

大学時代は比較宗教学を学んでいて、自分は筋金入りの無神論者だと言ってる。


いろんな宗教を学べば学ぶほど、神は存在しないということがよくわかってくると言っていた。


存在しているのは神ではなく、宇宙の法則だと教えてくれたの。


その法則が絶妙な自然淘汰を促して自然界を成り立たせているんだと言っていた。


それに天国や地獄などというものは人間の妄想が創り出したもので、そんなものは初めから存在していないと。


そんなことを信じているのは本当にかわいそうな人達なんだと言っていた。


私はそんな彼の現実的なものの見方が大好き。

私の考えとピッタリ。


私は宗教くさいのがとにかく嫌いだから 」

いっきに立て続けに話してくる。


私は何も言わず、ただじっと聞いていたが、ひよりの無邪気さと人の表情を読み取ろうとしないところが好きになれない。


私も信仰を持ってはいないけれど、ひよりとは根本的なところが何か違う気がする。


ひよりが宗教くさいのが嫌いだと言った時の苦々しい表情に少し不快感を感じてしまった。


日が経つにつれ、ひよりと顔を合わすことが少なくなっていく。

彼とのデートで忙しくなっているのだろうか?

あまり見なくなった。





映美はミッション系大学の持つ雰囲気が好きだ。

変なしがらみのようなものがない。


しかし、納得できないと思っていることがある。

キリスト教のスピリットのようなものが感じられない。


大学設立当時にはあったのかもしれないが、今はなんかよくわからない。

私には大学の理念のようなものが見えてこないのだ。


講義中に聖書はおとぎ話のようなものだとはっきり言う講師もいる。


祈りの時間はあるが、信仰を持たない人の祈りには軽い怒りさえ覚えてしまう。


私は真面目に捉えすぎているのだろうか?


私自身信仰を持っていないのに、なんでこんなに批判的な思いになってしまうのだろう。


多分、私は中身のない形骸化されているものが嫌いなんだと思う。

嘘っぽいのが嫌なんだ。


聖書を信じていない人のイエスキリストの話を聞かされてこんなことでいいんだろうかと正直思ってしまう。

大学側はどう思っているのだろう。


映美はこの大学でひとりだけ特別だと感じている人がいる。


数学のさら先生だ。

とても綺麗な人で気品がある。30代前半、独身。とても優しい。

それでいてとても芯の強い女性。


声も話し方も美しくとても魅力的だ。

内面の美しさが外見に滲み出ている。

数学の授業の後、私がなりたいのは

こんな人だといつも思ってしまう。


さら先生はいつも 小さな十字架のネックレスをしている。

クリスチャンかどうかは知らない。

講義は受けているが個人的に話したことは1度もない。

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