第2話 適応障害

高校受験もあきらめて自分の部屋に閉じこもって、生きているのか死んでいるのか自分でもよくわからない感じだった。

気持ちが萎えてしまい、わけもなく悲しくなり泣いて過ごす毎日。

たまに自分の名前が一瞬出てこない事もあった。


父がそんな私の様子を心配して、嫌がる私を心療内科に連れていく。

医師から強いストレスによる適応障害だと診断されてしまった。

だんだん食事も取れなくなり、睡眠障害も加わって、私はみるみるうちに廃人のようになっていった。


何種類も薬を飲まなければならない。

たまに幻聴も聴こえてくる。

得体の知れない後ろめたさと肩身の狭さが襲ってきていた。

死を考えてしまう自分が恐ろしい。


症状はだんだんひどくなり、3回目の受診で強迫性障害の症状もでてきているかもしれないと医師から言われる。


そんな時、中学の進路指導だった若い女の先生が卒業後も心配してくれて

家まで訪問して気遣ってくれる。


「お母さん、お父さんに話したくないことでも私ならなんでも聞いてあげるよ。これ私の連絡先」

と言って小さなメモ用紙に住所、電話番号、名前を綺麗な文字で書いて渡してくれた。


そのあと高校の通信教育を勧めてくれ、同時に(高認)高等学校卒業程度認定試験のことも教えてくれた。


その試験にパスすれば、大学受験の資格が与えられるらしい。


母も父も高校には行かなくてもいいから通信教育だけでもやってみなさいと勧めてくれたが、私は心を閉ざしていて頷くことは出来なかった。


将来のことを考える気力が完全に萎えていた。

次第に先生も両親も何も言わなくなってしまった。


あとで聞いた話だが、1年間は何も言わずにそのままにしてあげた方がいいだろうと医師から言われていたらしい。


「娘さんの場合、可能性は低いと思われますが、突発的な自殺の可能性もあり得ます」と言われていたそうだ。





結局1年くらい、何もしないで過ぎていった。

中学の同級生はすでに高校2年になっている。

私は外にも出られない。


何もしないで、窓から空を眺めているだけ。

ノートには死にたいという文字が黒く乱れながら暴れている。


鏡には生気のない顔がぼーっと私を見つめ返すだけ。


私は何もかもが面倒くさくなり、シャワーも自分で出来なくなっていた。

母が私の部屋でドライシャンプーで髪を時々拭いてくれたが、感謝の言葉も出てこない。


母に身体を触られるのが嫌だった。

あとは自分でウエットタオルで身体を少し拭くだけ。

そんな日々を過ごしていた。


気分の波が激しく自分はもうだめだと思い始める。


季節は変わり、また桜が咲き始める頃、中学のあの先生がまた笑顔で訪ねて来てくれた。

1年ぶりだった。


もう生徒ではないのに私のことを気にかけて優しくしてくれる。


ひょっとすると同じようなメンタルの病を体験したことがあって、だから私に同情的だったのかもしれないと思っていた。


卒業して1年以上も経つのに、そんな時間外労働をしてくれるのには理由があるはずだ。


私はまだ何もする気が起きない。

この状態が苦痛だった。

引きこもって何もしないことに疲れていた。

身体は鉛のように重く何もする気が起きない。


先生は優しく粘り強く話してくれる。

「まだ十分間に合うよ。

通信教育を受けながら、高認試験受けてみたら?

私にできることがあったら協力するよ。

合格して大学受験している人もたくさんいるよ。やってみようよ。」

と励ましてくれる。


「考えてみます。」

と言うのがやっとだった。

でも先生の顔を見て心が少し軽くなった気がしていた。


引きこもるようになってから先生は少なくても月に1回程度小さな封筒を家のポストに入れてくれていた。


そこには1行だけメモが書いてあった。

寒くなってきたね。とか綺麗な花が咲いていました。

とかそんな何気ない1行だったが、私はいつも何度も読み返していた。


人の心は笑顔と優しさに吸い込まれていくというのは真実だと思う。


自分のことを気にしてくれるのが嬉しかった。

先生の気持ちに応えたい。そう素直に思っていたが、身体の上にのしかかっている重たい石がどうしても外せなかった。


その日の夕食の後、父も母も通信教育を受けるのはいいことだと思うよと根気よく言ってくれる。


両親の悲しく潤んだような目を見ていると、今まで何も言わずに見守ってくれていたことに熱い涙が溢れ出た。


心と涙腺が壊れてしまったような涙ではなかった。

それまでの涙とは違っていた。

しっかり心が伴っている涙だった。

どれだけ両親に心配かけてしまっていたのだろう?


母はみるみるやつれてきている。

見た目は10キロ以上痩せたように見えていた。

そんな母を見ていたら、思わずやってみるという言葉が口から飛び出してしまった。


通信教育などやれるはずがないと思っていたが、どうなっても構わないという気持ちだったように思う。


やってみるという言葉を口に出した次の瞬間だった。

ほんの一瞬だったが目の前に夕焼けのような優しい色の閃光がピカッと光ったように見えた。

不思議な光だった。


木漏れ日のような光で私の心の中のモヤモヤした霧を吹き飛ばしてくれるような瞬間だった。

確かに私には光ったように見えた。


私の脳に光の残像が30分以上尾を引くように留まっていた。


しばらくして、迷いを振り切れないまま高校の通信教育を申し込み、1週間後には教材がどっさり届く。


ひとりで空を見たりしているだけなので、時間はたっぷりあった。


しかし、体は鉛のままだ。とても勉強する気にはなれない。

簡単には体はついてきてくれない。


最初は勉強ではなく教科書の表紙の模様を眺めるだけだったが、それが何故か楽しかった。


真新しい教科書の匂いに時間を取り戻すんだという気持ちが少しずつ湧いてくるようだった。


教科書の表紙の色や模様を見ながら、まるで犬のように教科書の紙とインクの匂いを嗅いだりしていた。

しかしその時間が何故か気持ちよかった。


でも文字は読む気がしない。それでも嬉しい。

そんな状態が1週間ほど続いた後、文字も少しずつ見ることが苦痛でなくなってきていた。


教科書の最初から見るのではなくパラパラめくって何となく読むだけ。

正確にいうと読むという感じではない。


文字を見るだけ。でもそれでも楽しかった。

発展途上国の子供達が、学校に行って勉強したいという気持ちがわかるような気がした。


私の脳内で何かが起こり始めていたのだ。


急に勉強意欲が湧いてきた。

雷が爆音をたて、硬い岩盤を打ち砕くように、私の中で何かが変化していくのがはっきりわかった。

奇跡が起こる気配があったのだ。


適応障害は緩やかに時間をかけて癒されていくのが通常だそうだが、私は例外みたいだ。


国語の教科書の文字を眺めている時、衝撃が走る。

枯渇していた心がバージンオイルにふれたように勢いよく潤されていくのが手に取るように感じられた。


生まれて初めての感覚だ。

脳を頭から取り出して氷水につけたような感じがした。


そのことが起こった日から、1日中ずっと教科書を眺めるようになる。

起きている時のほとんどは教科書を眺めるだけの時間になっていった。


勉強という感じではない。

ただ眺めるだけ。


同じページを何時間も眺めるだけなのだ。

文字を読むのではない。絵を見るように文字を眺めるだけ。


何故かわからないが、それがたまらなく楽しかった。

全然疲れない。父も母も心配するくらいだった。


父は教科書を何時間も眺めるだけの私を心配して医師に相談に行ったくらいだ。





奇跡が起きた!


圧縮されていたバネのフックが外れて爆発的な力が解放されるような瞬間だった。

ドアの向こうの世界に行ってしまったような感じだ。


眺めていただけの文字がまるで3Dのように立体的に見えてきたのだ。


子供の頃、初めて水中メガネでキラキラ光る海の底を見たときのようにはっきりくっきり文字が見えてきた。

見た瞬間に記憶されてゆく感覚。


次から次へとページをめくって脳に吸収されていく。

眺めるから見るに変わっていき、それが文字を読むに変わっていった。


文章を見ていると、次の文章が予測できるような感じがする。頭が冴え渡る。


本当に奇跡が起こったと思った。

体験した人にしかわからないと思う。

見た瞬間に記憶されていくのだ。

覚えるための繰り返し作業はまったくない。


私だけではなく、メンタルの問題を持つ人の中にはたまにこのような特殊な体験をする人がいるらしい。

自分でも信じられない感じだった。

説明はできないが私の脳内で何かが起きていた。


私の学力は飛躍的に伸びていく。

奇跡はとどまることを知らず勢いは止まらなかった。


本当に信じられないことが起こった。

ありえないと思えることが起きてしまった。


中学の同級生が高校を卒業する1年前に私は高等学校卒業程度認定試験に合格して、彼らと同じ時期に大学受験するという現実に身震いした。

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