第3話 世界で一番美しいバズ
ドォォォォン……。
遠く二乃宮港の方角から、地響きのような音が届く。
夏の夜気は、数万人の熱狂を孕んで生温かく湿っていた。駅前の大通りは人で埋め尽くされ、街全体が浮き足立った巨大な生き物のようだった。
陽葵は、暗い非常階段の踊り場で息を潜めていた。
読み通り、警備の目は甘い。花火の爆音と、見上げる群衆の歓声。誰一人として、古びたビルの裏側を這い上がる影に気づく者はいない。
最後の一段を登り切り、錆びついた扉を押し開ける。
屋上のコンクリートに一歩を踏み出した瞬間、遮るもののない夜風が陽葵の髪を激しく乱した。
「……五時四十五分」
デジタル時計の数字が切り替わる。
陽葵は震える手で、動画モードにしたスマートフォンを構えた。
いつもの「彼女」が現れる場所。屋上の縁、ひび割れたコンクリートの際。そこへレンズを向け、録画ボタンを押し込む。
けれど。
一分が過ぎ、二分が過ぎた。
屋上には、陽葵と、重低音を響かせるエアコンの室外機しかない。
白いブラウスの女は、どこにも現れなかった。
「……どうして?」
焦燥が陽葵を突き動かす。もっと前へ。もっと縁(ふち)へ。
かつて、このビルの屋上に権力者が視察に来たとき、女は現れなかった。
そして今、この屋上には「私」がいる。
幽霊でさえ、私の存在を無視するというのか。
この孤独な場所でさえ、私は「背景」でしかないのか。
「ねえ、出てきてよ! 撮らせてよ!」
陽葵は叫びながら、屋上の縁に手をかけた。
そのまま、身を乗り出すようにして下を覗き込む。
――その瞬間だった。
ドォォォォォォン!
それまでよりも遥かに大きな破裂音が、夜の静寂を粉砕した。
同時に、二乃宮の夜空が、見たこともないような鮮烈な「朱色」に染まった。
陽葵は見た。
駅前の大通りを埋め尽くしていた数万の群衆が、一斉に、こちらを見上げているのを。
彼らが掲げている数千のスマートフォンのレンズ。
そのすべてが、花火の光に照らし出された「屋上の縁に立つ人影」を、陽葵を、捉えていた。
「ああ……っ」
全身の血が逆流するような、強烈な快感が陽葵を貫いた。
学校の教室でも、集合写真の中でも、一度も得られなかった熱い視線。
今、この瞬間、私はこの街の太陽だ。
この数万人の視覚という網膜に、私の姿が深く、鋭く突き刺さっている。
もっと。もっと見て。
もっと深く、私を焼き付けて。
あの「落ちる女」が浴びていた視線は、これだったのか。
消えてしまう前の、ほんの一瞬。世界中の光を独り占めにする、この全能感。
陽葵は、スマートフォンのカメラを自分の方へ向けた。
自撮り(セルフィー)の画面の中で、彼女の瞳はかつてないほど美しく、狂おしく輝いている。
「私を見て」
陽葵は、最後の一歩を踏み出した。
身体が宙に浮く。
スカートが傘のように広がり、長い髪が夜気に逆立つ。
十階、八階、六階。
落ちていく陽葵の視界の中で、群衆の歓声が絶叫へと変わっていくのが分かった。
いい。これでいい。
これこそが、私の求めていた「特別」だ。
地上まであと数メートル。
いつもあの女が消えていた、その場所。
陽葵は、自分が消えないことを確信していた。
私は幽霊じゃない。私は生きている。だから、私は、激しく壊れて、永遠に刻まれる。
激突の直前。
夜空に、この日一番の巨大な「千輪菊」が咲いた。
一面の真っ赤な光。
その光に祝福されながら、安達陽葵は、二乃宮町の新しい「名所」になった。
翌日。
SNSには、真っ赤な空を背景に、幸せそうに微笑みながら落ちていく少女の動画が、何百万回も再生され続けていた。
街の空には、明日もまた、誰かが浮くのだろう。
本日の定時落下は終了しました 三七倉港(みなくらみなと) @kura_373
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