第2話 背景としての少女、執着としての屋上

学校という場所は、陽葵にとって巨大な「空白」だった。

 朝、教室のドアを開けても、誰の視線も彼女を掠めない。

「おはよう」という言葉は、陽葵の周囲数センチメートルの空間で霧散し、クラスの中心で笑い合うグループの喧騒に飲み込まれていく。

 授業中、教師が名簿を指でなぞる。

「……ええと、安達。ここ読んでくれ」

 一拍置いて、教師は陽葵と目が合っているにもかかわらず、不思議そうに首を傾げた。

「ああ、安達は休みか? ……あ、いたのか。すまん、影が薄くて気づかなかったよ」

 ドッと、教室に乾いた笑いが起きる。悪意はない。それが一番、陽葵の胸を深く抉った。悪意さえ、彼女に向けられる特別な感情の一種なのだから。

 極めつけは、先週配布された文化祭の集合写真だった。

 クラス全員がピースサインで収まっているその写真で、陽葵は後列の隅に立っていた。しかし、前の男子生徒がふざけて広げた腕が、ちょうど陽葵の顔を完全に覆い隠していた。

 

 誰もそのことに気づかなかった。

 学級委員が「これ、みんな映ってるよねー?」と確認したときも、全員が「オッケー!」と笑って返した。

 陽葵はその場にいたのに、写真の中の彼女は、最初から存在しなかったことになっていた。

(……私は、ここにいるのに)

 陽葵は机の下で、自分の太腿を爪が食い込むほど強くつねった。

 痛みだけが、自分の輪郭を教えてくれる唯一の手段だった。

 放課後、彼女は逃げるように駅前へ向かう。

 五時四十五分。いつものように「ニノミヤ・セントラルプラザ」の前に人だかりができる。

 見上げれば、そこには「彼女」がいる。

 一歩を踏み出し、空に舞う。

 その瞬間、街中の何千という瞳が、ひとつの点――あの白いブラウスに集中する。

「ああ……」

 陽葵の口から、熱い溜息が漏れた。

 羨ましかった。死ぬほど、羨ましかった。

 毎日死んでいるはずのあの幽霊は、生きている私よりも、ずっと色鮮やかにこの世界に存在している。

 

 ネットで調べた情報の屑なんて、もうどうでもよかった。

 あの女が男だったのか、それともビルの宣伝材料にされているのか。そんなことは、どうでもいい。

 大事なのは、あの女が「見られている」という事実だけだ。

 もし。

 もし、あの女が飛び出す「その瞬間」を、同じ屋上の縁で、誰よりも近い至近距離で撮影できたら。

 レンズ越しに女の瞳を捉え、その震え、そのスカートが翻る音まで記録できたら。

 それをネットに流せば、今度こそ世界は「私」を見つけるだろう。

「この動画を撮ったのは誰だ?」と、何万もの視線が、スマホの画面を突き抜けて私に注がれるに違いない。

 チャンスは、今週末の「二乃宮港大花火大会」の夜だった。

 港から打ち上がる花火を特等席で見ようと、街中の人々が駅前の広場や歩道に溢れかえる。警察も警備員も、群衆の整理と交通規制で手一杯になるはずだ。

 セントラルプラザの裏口にある、古びた非常階段の鍵が壊れていることは、既に調査済みだった。

「待ってて」

 陽葵は、空中に消えた女の残像に向かって、小さく呟いた。

 

 私は、あなたになる。

 あるいは、あなたを飲み込むほどの、特別な「何か」になる。

 その夜、陽葵は部屋でカメラの充電を確認した。

 鏡に映る自分の顔は、相変わらず平凡で、どこかぼやけていた。

 けれど、その瞳だけは、暗い部屋の中で異常なほどギラギラと、真っ赤に充血して輝いていた。

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