本日の定時落下は終了しました

三七倉港(みなくらみなと)

第1話 日常に溶けた落下

 その街の空には、いつも誰かが浮いていた。

 港から吹き付ける湿った海風が、高層ビルの間を縫って駅前の大通りを通り抜ける。そこは、常に膨大な数の人間が行き交う巨大な商圏だ。碁盤の目のように整列したアーケード、デパートのきらびやかなショーウィンドウ、そして地下へと吸い込まれていく人々の波。どこか特定の街を連想させるが、どこにも存在しない、名前ばかりの「二乃宮町(にのみやちょう)」。

 その中心に、一際古びた商業ビル「ニノミヤ・セントラルプラザ」が建っている。

 午後五時四十五分。

 夕闇が街を侵食し始めるその時刻になると、駅前の歩道には奇妙な「滞留」が発生する。

 仕事帰りの人々も、塾に向かう学生も、買い物袋を提げた主婦も、一様に足を止め、同じ方角を見上げる。彼らが手にしているスマートフォンのレンズは、すべてセントラルプラザの屋上へと向けられていた。

 ――ガタッ。

 屋上の縁に、一人の女が立つ。

 白いブラウスに、膝丈のスカート。どこにでもいるような、ごくありふれた女の輪郭だ。

 女はためらうことなく、一歩を踏み出した。

 重力に従い、身体が反転する。スカートが傘のように広がり、長い髪が夜気に逆立つ。

 十階、八階、六階。

 落ちていく女の姿は、街灯やネオンサインに照らされ、鮮やかな残像を残す。

 一階付近、地面まであと数メートルというところで、周囲の空気がわずかに歪んだ。

 次の瞬間、女の身体は霧が晴れるように、ふっと消えた。

 地面に叩きつけられる肉の音も、飛び散る鮮血もない。ただ、アスファルトの上を風が吹き抜けるだけだ。

 周囲からは、溜息とも歓声ともつかない乾いた声が漏れる。

「あーあ、今日は雲が邪魔だったな」

「今の、角度最高じゃない? インスタ載せよ」

「#二乃宮 #落ちる女 #今日も定時」

 人々は満足げにスマホの画面をタップし、何事もなかったかのように再び歩き出す。

 それはこの街において、天気予報を確認するのと同じくらい、ありふれたルーティンだった。

 二乃宮町の「飛び降り女」。

 それがいつから始まったのか、正確に覚えている者はいない。数年前からインターネットで話題になり、今ではすっかりこの街のアイコンだ。ビルの下には「飛び降り観覧スポット」と言わんばかりに、キッチンカーや屋台まで並んでいる。

 

 死を弄んでいるわけではない。ただ、誰も死なないからこそ、それは消費可能な娯楽として成立していた。

 そんな喧騒の端で、安達陽葵(あだち ひまり)は、首が痛くなるほど屋上を見上げていた。

 撮影を終えた群衆が自分を追い越していく中、彼女だけが、女が消えた空間を凝視し続けている。

「……いいな」

 ぽつりと、独り言が漏れた。

 あの女は、毎日決まった時間に現れるだけで、この街にいる数千、数万の視線を独占する。

 老若男女、誰もが足を止め、スマホを掲げ、祈るような眼差しで彼女の落下を待っている。

 消えてしまった後でさえ、人々の話題の中心にはあの「白いブラウス」が残っている。

 陽葵は、自分の身体を包む制服の上から、そっと自分の腕をさすった。

 自分には、あんな風に人々の瞳を焼き付ける力はない。

 街灯に照らされた自分の影は薄く、アスファルトに溶けてしまいそうだった。

 あの女の「正体」を、もっと深く知りたい。

 みんなが見ている表面的な落下ではなく、誰も触れたことのない彼女の核心に触れたい。

 

 もし、世界で自分だけが知る「真実」を手にすることができれば。

 この渇きが、少しは癒えるのではないか。

 陽葵はスクールバッグのストラップを強く握りしめ、足早に歩き出した。

 まずは、あのビルにまつわる過去を洗う必要がある。




二乃宮市立中央図書館の地下資料室は、カビの匂いと古い紙の湿り気が淀んでいる。

 陽葵は放課後のほとんどを、ここで過ごすようになった。目の前には、十数年前の地方新聞を記録したマイクロフィルムの映写機が、うなりを上げて熱を放っている。

「……これじゃない」

 陽葵は指先でリールを回す。画面を流れる白黒の文字が、彼女の瞳をチカチカと刺激する。

 

 彼女が探しているのは、あの「落ちる女」のルーツだ。

 あんな風に鮮やかに、そして無慈悲に繰り返される現象には、必ず核となる『死』があるはずだった。

 ようやく見つけた記事は、三十年ほど前の小さな社会面だった。

『二乃宮駅前ビルにて飛び降り 身元不明の男性が死亡』

 陽葵は眉をひそめた。記事を読み進めるが、場所は間違いなく「ニノミヤ・セントラルプラザ」だ。しかし、死んだのは男だった。作業服を着た四十代くらいの男が、深夜に屋上から身を投げたという短い記録。

「男……?」

 陽葵はノートにペンを走らせる。現在、街の誰もが目撃しているのは、明らかに若い女性の姿だ。性別が違う。年代も一致しない。

 調査を進めるにつれ、奇妙な事実は他にも見つかった。

 数年前、この街を大規模な再開発計画が襲った時のことだ。県知事や大手デベロッパーの重役たちが、視察のためにセントラルプラザの屋上に登った。

 その日の午後五時四十五分。

 地上では数千人の観衆が息を呑んで「その時」を待っていたが、結局、女は現れなかった。

『幽霊も権力には弱いのか?』

 当時のネットニュースには、そんな揶揄するような見出しが躍った。

 だが、陽葵の解釈は違った。あれは拒絶だ。あの女は、土足で自分の聖域に踏み込む「偉い人」たちに、自分を切り売りすることを拒んだのではないか。

 さらに、ビルの所有者である「二乃宮興産」の対応も不気味だった。

 老朽化が進み、自殺の名所(たとえ幽霊だとしても)となったビルを、普通なら閉鎖するか取り壊すだろう。だが、オーナー側は頑なにそれを拒んでいた。

「駅前の大通りに面しており、宣伝効果は計り知れない」

 それが公式の回答だった。実際、ビルの壁面にある大型ビジョンには、落下の瞬間に合わせて高額な広告が流れ、オーナーは莫大な広告収入を得ているという噂がある。

 ――けれど。

 陽葵はスマホを取り出し、検索窓に「二乃宮 落ちる女 正体」と打ち込んだ。

 画面に並ぶのは、彼女がこの数週間で必死に集めた情報と、寸分違わぬ文字列だった。

『悲報:落ちる女の元ネタ、実はオッサンだった説』

『知事視察の日にボイコットwww』

『ビルオーナー、幽霊でボロ儲け疑惑を追及してみた』

 そこには、陽葵が見つけた「真実」が、既に手垢のついた娯楽として転がっていた。

 匿名掲示板の住人たちは、陽葵よりもずっと前から、もっと深く、この謎を解剖し尽くしていた。

「……結局、私はなぞっているだけなんだ」

 画面の光が、陽葵の無機質な表情を照らす。

 自分が特別だと思っていた「気づき」も、この膨大な情報の海の中では、一滴の水にすらならない。

 誰かが書いた記事に、誰かが付けたコメント。

 自分は、その観客の一人でしかない。

 図書館の閉館を告げる音楽が流れ始めた。

 陽葵は乱暴にノートを閉じ、バッグに押し込む。

 喉の奥が、焼けるように熱かった。

 知っているだけでは足りない。

 ネットに溢れている画像や動画、そんな二次元のゴミとは違う、圧倒的な「何か」を手に入れなければならない。

 誰も見たことがない角度から。誰も撮ることができなかった距離から。

 あの女の瞳に、私の姿が映るくらいの場所で。

 陽葵の脳裏に、セントラルプラザの、あの固く閉ざされた屋上への扉が浮かんだ。

「……私が見てあげる」

 誰よりも近くで、私だけが。

 

 その歪んだ渇望が、彼女を次のステージへと押し上げようとしていた。

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