第二章 棘と薔薇
それから、週に三回。
華憐はジムに通ってきた。東京から電車を乗り継いで二時間半。その間、何をしているのかと聞いたら「アクセサリーのデザインしてる」と返ってきた。
「アクセサリー?」
「自分のブランド持ってんだ。『Thorn & Lace』。棘とレースって意味」
晶は、華憐の首元を見た。十字架のチョーカー。よく見ると、十字架の周りに細かい薔薇の棘が絡みついている。
「……それも、自分で?」
「ああ。銀細工」
華憐は、当然のように言った。
ボクサーで、ゴスロリで、アクセサリーデザイナー。
意味が分からない。
一人の人間の属性として、まったく噛み合わない。
でも、華憐の中では、それが自然に共存している。
晶は、その「自然さ」が理解できなかった。
そして練習は、容赦なかった。
華憐の指導は、技術的なことだけじゃなかった。晶の動きを見て、一つ一つ指摘してくる。
「右肩が上がってる」
「え?」
「無意識に、体を閉じてんだ。守ろうとしてる」
「何を?」
「そんなの知らねえよ。自分で分かれ」
華憐の可愛い顔で言われると無性に腹が立つ。
華憐は、晶の肩に手を置いた。指先が、鎖骨に触れる。
晶の体が、びくりと震えた。
「——っ」
「ほら。今も逃げた」
「逃げてねえ」
「逃げてる。自分の体に触られるの、嫌なんだろ」
晶は、言葉を失った。
これも図星だった。
昔から、人に触られるのが苦手だった。特に、女子同士のスキンシップ——腕を組んだり、抱きついたり——が、どうしても受け入れられなかった。
理由は、分からない。
ただ、嫌なのだ。
自分の体を「女の体」として扱われることが。
「お前さ」
華憐は、晶の目を覗き込んだ。
「自分の体、好きか?」
「……は?」
「嫌いだろ」
沈黙。
晶は、目を逸らした。
華憐は、それ以上追及してこなかった。ただ、ミットを構えて言った。
「いいから打て。打ちながら考えろ」
晶は、拳を握った。
左ジャブ。右ストレート。華憐のミットに、拳が吸い込まれる。
「もっと開け」
「開けって——」
「肩。胸。全部。閉じてんだよ、お前は」
華憐の声が、耳の奥に響く。
晶は、歯を食いしばった。
分かってる。分かってるんだ。自分が何かを閉じていることは。でも、それを開けたら——何が出てくるか分からない。
それが怖い。
その一言が、喉の奥に詰まっている。
「——っ!」
渾身の右ストレート。
華憐のミットが、その衝撃を受け止める。
「……いい音だ」
華憐は、静かに言った。
「今のは、良かった。少しだけ、開いてた」
晶は、荒い息をついていた。汗が目に入る。視界が滲む。
「……なんで、こんなことしてんだ」
「何が」
「お前、俺のコーチなんかしなくても、東京で好きにやってられるだろ。わざわざ俺みたいな——」
「お前みたいな?」
華憐が、首を傾げた。
「お前みたいな、何だ?」
晶は、言葉に詰まった。
自分を何と呼べばいいのか、分からなかった。女? ボクサー? それとも——
「お前は真珠洲晶だろ。違うか?」
華憐は、晶の頭を軽く叩いた。
「それ以上でもそれ以下でもねえ。俺がここに来てるのは、村雨さんに頼まれたからってだけじゃない」
「じゃあ、なんで」
「お前に、昔の俺を見たからだ」
晶は、華憐の顔を見上げた。
華憐の瞳が、遠くを見ていた。リングの向こう、壁の写真——歴代の選手たちの姿を、見つめているようだった。
「俺も昔、リングの上でしか生きられないと思ってた。ボクシングを取り上げられたら、俺は何も残らないって」
「……」
「でも、違った。リングを降りても、俺は俺だった。形が変わっただけで、中身は変わんなかった」
華憐は、晶に向き直った。
「お前も、そうだ。ボクシングがなくなっても、お前は消えない。でも今のお前は、リングの上だけが本当の自分だと思ってる。違うか?」
晶は、答えられなかった。
当たっていた。
リングの上でだけ、「自分」でいられる。それ以外の場所では、ずっと借り物の自分を演じているような気がしていた。
「その考えを捨てろ」
華憐は、静かに言った。
「お前は、どこにいても『お前』だ。リングの上も、外も、全部含めて『真珠洲晶』だ。そう思えるようになったら——お前はもっと強くなれる」
晶の胸の奥で、何かが軋んだ。
泣きたいような、叫びたいような、衝動。
でも、涙は出なかった。
声も出なかった。
ただ、拳を握りしめた。
「……もう一セット」
「おう」
華憐がミットを構える。
晶は、再び拳を振るった。
窓の外で、夕日が沈み始めていた。オレンジ色の光が、ジムの床を這う。埃が舞って、光の筋を浮かび上がらせる。
遠くで電車の音。近所の子供の声。換気扇の唸り。
その中で、革を叩く音だけが、確かなリズムを刻んでいた。
◆
十月に入った頃、変化が起きた。
晶の動きが、目に見えて変わり始めた。
肩の力が抜けた。ガードが柔らかくなった。フットワークに、今までにない滑らかさが加わった。
スパーリングでも、結果が出た。男子の練習生相手にも、以前より互角に渡り合えるようになった。
「お前、変わったな」
同じ練習生の神崎が、タオルで汗を拭きながら言った。
「前より……何て言うんだ、しなやかになった」
「しなやか?」
「うん。力任せじゃなくなった。流れるようになった」
晶は、自分の拳を見下ろした。
確かに、何かが変わっている。技術だけじゃない。もっと根本的な何かが。
「あの人、すげえな」
神崎は、リングサイドで携帯を見ている華憐を見た。今日はゴスロリではなく、黒のニットワンピースに編み上げブーツ。それでも十分に目立つ。
「最初、俺もビビったけど。マジで元ボクサーだったんだな」
「ああ」
「しかも国体王者って」
「ああ」
晶の返事は、素っ気なかった。
でも胸の奥では、華憐のことばかり考えている自分がいた。
練習の後、華憐と話す時間が増えた。最初は技術的なことだけだったのに、いつの間にか、他愛もない会話をするようになっていた。
「お前、ご飯ちゃんと食ってんの?」
「食ってる」
「嘘つけ。肌荒れてんぞ」
「……うるせえ」
「減量はまだ先だろ。今のうちにちゃんと栄養取っとけ。タンパク質。野菜。睡眠。基本だ」
華憐は、晶の頬をつまんだ。
「ほら、こことか。超カサカサ」
「——っ! 触んな!」
晶は、顔を真っ赤にして振り払った。
華憐は、軽く笑った。
「お前、可愛い反応するな」
「可愛いって言うな!」
「なんで? 可愛いじゃん」
「俺は可愛くなんかねえ!」
声が、裏返った。
晶は、自分の反応の大きさに、自分で驚いた。頬が染まっているのが自分でもわかる。なんでこんなに動揺しているんだ。華憐にただ「可愛い」と言われただけなのに……。
華憐は、晶の顔をじっと見ていた。
その目が——やけに真剣だった。
「……お前、『可愛い』って言葉、嫌いなんだな」
「……ああ」
「なんで?」
晶は、答えられなかった。
なぜ「可愛い」が嫌なのか。それを言葉にすることは、自分の中の何かを認めることになる気がして——
「別に、今は言わなくていい。ちなみに俺は、可愛いは大好きだ」
華憐は、晶の頭をぽんと叩いた。
「まあお前もいつか分かる日が来る」
晶は、華憐を見上げた。
夕暮れの光が、華憐の横顔を照らしていた。白い肌。長い睫毛。ボルドーの唇。
綺麗だ——と、晶は思った。
そして、その思考に自分で驚いた。
綺麗? 誰が? こいつが?
華憐は、男だ。外見は美少女でも、中身は男。
なのに、晶の心臓は、いつもより速く鳴っていた。
これは——何だ?
俺はおかしくなったのか?
答えは、まだ出なかった。
【自分探し恋愛短編小説】棘と薔薇 ~ゴスロリコーチとテンカウント~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。【自分探し恋愛短編小説】棘と薔薇 ~ゴスロリコーチとテンカウント~の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます