柔らかい土
灯籠小四郎
第1話 霧の咆哮
二〇一〇年十月、横浜。 海から這い上がってきた深い霧が、中華街の入り口である善隣門を白く塗り潰していた。
石畳に染み付いた古い油の匂い、厨房から吐き出される熱い煙、そして数多の吐息。それらが混ざり合い、粘り気のあるヴェールとなって路地を埋め尽くす。視界は数メートル先で途切れ、街灯はただ白濁の中に滲んでいた。
大賢は、山下公園側から境界線を越えた。 革ジャンのポケットに拳を突き込み、湿ったアスファルトに足音を殺して歩く。右の額、前髪の隙間に覗く火傷の跡が、冷気を受けて疼いた。脈打つたびに走る鈍い痛みは、五年前の記憶を呼び起こすための装置だった。
あの夜も、同じ霧だった。大賢は、この街の路地を自分の庭だと思い込んでいた。その無軌道な全能感は、霧の向こうから現れた「何か」によって無惨に砕かれた。 国家の影だったのか、街の深淵に棲む闇だったのか。今となっては判然としない。ただ、記憶に残っているのは、冷たい金属が空気を切り裂く音と、親友の短い悲鳴。 大賢が必死に伸ばした指先は、親友の背中ではなく、赤く焼けた鉄の棒を掴んだ。その熱が額に焼き付いたとき、彼の少年時代は終わった。
「……また、この霧か」
呟きは霧の壁に突き当たり、無機質に自分へと戻ってくる。
路地の角、赤いネオンが白濁の中で重く揺れていた。屋台『七福城』。 「麻婆豆腐、食ってけ。魂まで温まるぞ」 店主・張の怒鳴り声が響く。張の分厚い手は、加熱された油の中でも動じない。鉄板の上で唐辛子が爆ぜ、暴力的な香気が一瞬だけ霧を切り裂く。観光客が熱い皿を囲んで笑う。だが、その笑い声の底には、今にも崩落しそうな不安定な震動が走っていた。
大賢は、路地の壁で足を止めた。 湿気を吸って波打つ、剥がれかけたビラ。暴力的に太い、黒い文字。
「日本を取り戻せ」
インクの匂いが、中華街の香辛料と混ざり合い、胃の奥を不快にかき回す。 二〇一〇年秋。テレビの中では尖閣の波が荒れ、船体がぶつかり合い、人々が画面越しに叫んでいた。その熱が、目に見える毒となってこの街に浸食してきている。
「おい、あんた。そんなもん見て、腹でも膨れるのか」
背後の声に、大賢は反射的に肩を震わせた。 振り返ると、ビラを配っていた若い男が立っていた。清潔感のある短髪。だが、その瞳だけが、この霧の夜に不釣り合いなほどに乾いている。
「……掘り起こす必要があると思わないか。この街を」 男の声は、感情を排した機械のようだった。
「掘り起こす?」
「この街は、柔らかすぎる土だ。誰でも入ってきて、勝手に根を張る。だが、その土はもう限界まで腐りかけている。一度、すべてを深く掘り起こして、浄化しなきゃならない。本来の持ち主の手に、戻すんだよ」
大賢は、男の差し出したビラの束を無言で見つめた。 男はそれだけを言い残し、足音も立てずに霧の中へ消えていった。石畳の上には、湿気に丸まった紙切れだけが残された。
大賢はその一枚を拾い上げ、拳の中で握りつぶした。 「柔らかい土」という言葉が、呪いのように耳にこびりついて離れない。
亡き祖父が、病床で遺した言葉。 祖父は一九四五年の横浜、瓦礫と化した焼け跡を知る男だった。
『大賢、いいか。この街の土はな、世界で一番柔らかいんだ』 節くれだった手が、大賢の小さな手を包み込んだ。 『戦後、ここには何もなかった。焼け焦げた土と、瓦礫だけだ。だが、その土はな、どんなに踏みにじられても、どんなに血が流れても、すべてを飲み込んで温めてくれた。俺たちはその土に膝をつき、焼け跡から拾った鉄板一枚で飯を炊いた。差別も、貧困も、すべてをこの土に混ぜ込んで、俺たちは生き抜いてきた。だからいつかお前がこの土を掘る日が来たら、忘れるな。そこには俺たちの汗が埋まっているんだ』
祖父にとって、柔らかい土は受容と再生の象徴だった。 だが今、男の口から出たそれは、脆弱さと汚染の象徴へと変質している。
同じ言葉が、これほどまでに違う意味を持って響くことに、大賢は戦慄した。
「ふざけやがって……」
ゴミ箱に紙を叩き込む。その横を、一人の女性が通り過ぎようとして足を止めた。 スーツ姿。表情には隠しきれない疲労と苛立ち。彼女は壁のビラを一瞬だけ見つめ、細い指先をかけた。
「……気持ち悪い。この街に、何を求めてるのよ」
彼女の言葉は、誰に向けるでもなく霧に消えた。糊は頑固にこびりつき、紙の端が少し破れただけで、ビラは街の壁に深く癒着したままだった。彼女は舌打ちし、ヒールの音を霧の中に響かせながら、去っていった。 石畳に残された紙の破片が、街の開いた傷口に見えた。
霧が、さらにその密度を増していく。 数メートル先さえも見通せない。七福城の赤いネオンさえ、断末魔を上げる生物の眼球のように、不気味にぼやけていく。
喧騒は、いつの間にか遠ざかっていた。 代わりに、どこか遠くの路地裏で、一定のリズムを持った音が聞こえ始めた。
コツ、コツ、コツ。
軍靴のようでもあり、あるいは、真夜中の静寂の中で誰かが土を掘り起こす、冷たいスコップの音のようでもあった。 大賢は、額の傷を強く押さえた。痛みが、脳を直接殴る。
警告だ。 五年前、あの霧の向こうで何かが自分たちの日常を壊したように。 今、また何かが、この「柔らかい土」の下から這い出そうとしている。
「……俺は、掘らせねえぞ」
大賢は、霧の中へ一歩を踏み出した。 足元の石畳。その下には、祖父たちが戦後の焼け跡で踏み固めた歴史がある。そこにはまだ、冷え切っていない熱が残っているはずだ。
霧の向こうで、火種のような赤い光が一度だけ明滅した。 すべてを飲み込んできた「柔らかい土」が、ついにその沈黙を破り、咆哮を上げようとしていた。
物語は、このインクの匂いと、霧に濡れた石畳の上から、幕を開ける。
柔らかい土 灯籠小四郎 @g6kt
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