第8話「本名は、水瀬沙希」

 玄関のほうから、カチャリと扉の開く音がした。


(……帰ってきた)


 少し緊張している自分に気づく。


 ドアが開いて、ルナが顔を出した。

 一瞬だけ、会社帰りの社会人みたいなきっちりした表情で部屋をぐるっと見回す。

 視線が俺を見つけたところで、目の端が、ほんの少しゆるんだ。


「……あ、いる」


 拍子抜けするくらい、普通の声。

 でも、その「いる」に、がっかりした色はなかった。

 むしろ、肩からふっと力が抜けたように見える。


「おかえり」


 勝手に、その言葉が口から出た。

 自分の家でもないのに、やっぱり少し変な感じがする。


 ルナは一瞬だけきょとんとして、それから口元だけで笑った。


「うん、ただいま」


 その表情と返事を聞いた瞬間、こっちの肩からも力が抜けた。

 少なくとも、「なんでまだいるの」とは思われてないらしい。


 ルナはパンプスを脱ぎながら、玄関マットの上で小さく息を吐く。


「……はあ、つかれた」


 ぼやきながらも、視線だけこっちに向けてくる。


「一日中、ここにいた?」


「うん。掃除と、バイトの応募とか、ちょっとだけ」


「ふーん……」


 玄関のほうから、部屋の中を見回す。

 昨日の夜と違って、テーブルもキッチンも、余計なものは一応掃除した。


「……ねえ、これ」


 ルナがローテーブルを指さす。


「掃除、してくれた?」


「あー……勝手に、少しだけ」


 自分で言って、恥ずかしくなる。

 大したことはしてないのに、恩着せがましく聞こえないか心配だった。


 ルナは近くまで歩いてきて、テーブルとキッチンをもう一回ぐるっと眺めた。


「全然ちょっとじゃないんだけど」


 そう言って、こっちを向く。

 一瞬だけ、何か言葉を探すみたいにまばたきしてから、目元がやわらかくなる。


「ありがと。めちゃくちゃ助かる」


 そのひと言だけで、今日一日ぶんの労力は全部回収された気がした。


「とりあえず、座ってて。ジャケットだけ脱いでくる」


「ああ」


 ルナは一度ベッドルームのほうに消れて、すぐに戻ってきた。

 Tシャツに部屋着のパンツ。髪も少しだけほどいていて、仕事モードの面影はほとんどない。


 さっき玄関に立ってたOLが、一瞬で自分が知っているルナに変わった気がした。


「お待たせ」


 そう言って、俺の隣に腰を下ろした。

 クッション一つ空けるのかと思ったら、半分も空いてない距離だ。


 ソファが、ぐっと沈む。

 肩のあたりから、ほんのりシャンプーの匂いがした。


(近いな)


 そう思ったくせに、体はなぜかそのまま動かない。


 ルナはソファの背もたれに軽くもたれて、部屋を一周見渡す。


「ほんと、きれいになってるね」


「いや、元がそこまで散らかってたわけじゃないけど」


「ううん。その気持ちが嬉しかったんだよ」


 少し照れ笑いしながら、軽く肘で小突いてくる。

 その距離感が、思ったよりずっと自然で、変にくすぐったい。


「あーあとバイトも何件か応募した。面接の返信も、少し来てる」


「おお」


 ルナの目が、ぱっと明るくなる。


「ちゃんとこれからのこと考えてるじゃん。えらい」


「えらいのハードル低くない?」


「今日の直哉には、これくらいでちょうどいいの」


 そう言って、少しだけ視線を落とした。

 その横顔が、昨日よりずっと近い。


「……なんか、うれしいな」


「何が?」


「ちゃんと帰ってきたらいるの、ちょっと安心した」


 ぼそっと、そんなことを言われる。

 こっちを見ないで言うあたりが、ドキっとした。


「……こっちこそ、出てけってならなくてよかったわ」


「それは今日の直哉の成績次第だから」


 軽口で誤魔化しながらも、ルナの声はどこかあったかい。


 少し沈黙が落ちたあと、ルナが「あ、そうだ」と手を打った。


「大事なこと忘れてた」

「なに」

「さすがにさ」


 ちょっとだけこちらに身体を向き直る。


「ここまできて、ルナと直哉のままなの、やばくない?」


「あー……まあ、たしかに」


 言われてみれば、名前も連絡先も交換してない。

 一晩同じベッドで寝ておいて、それはそれでどうなんだ。


「本名、まだ言ってなかったよね」

「聞いてない」

「じゃあ、今言う」


 ルナは、少しだけ姿勢を正してから、まじめな声になる。


「本名は、水瀬沙希」

「……水瀬、沙希」


 頭の中で、もう一度名前を確認してみる。

 さっきまで「ルナ」だった彼女に、急にフルネームがついた。


 同じソファに座ってる距離なのに、ぐっと距離が近づいた感じがする。


「なんか、改めて言うと恥ずかしいね」


 沙希が、耳のあたりをぽりぽり掻く。

 沙希は笑いながら、自分のスマホを手に取る。


「連絡先、交換しよ。さすがに連絡手段ないの、不便すぎる」


「まあ、そうだな」


 俺もポケットからスマホを出す。

 自然と、お互いの膝のあたりが近づいた。


「ほら、QR出して」

「はいはい」


 画面を寄せ合うみたいな形になる。

 たまに指先が当たって、そのたびに変に意識してしまう。


「……はい、登録完了」


 沙希の画面に、「佐伯直哉」が追加された。


「なんか、ちゃんと知り合いになった感じするね」

「今までは?」

「うーん。酔って拾ってきた迷子」

「ひどくない?」

「でも、今日の働きで、ちょっとランクアップ」


 そう言って、画面をこちらに向けてくる。

 トーク画面には、まだ何もない。


「ほら、ちゃんといる」

「……なんか、変な感じだな」

「良い意味でしょ。悪い意味だったら消すから」

「すぐ消すな」


 そんなやりとりをしているうちに、さっきまでの不安だった気持ちが薄くなっていく。

 代わりに、「今日もここにいていい」みたいな感覚が、じわじわ染み込んでくる。


「よし、とりあえず名前と連絡先までクリア」


 沙希が、スマホをローテーブルの端に置く。


「じゃあ、わたし先にシャワー行ってくるね」

「うん」


「直哉は、リモコン好きに触っていいよ。冷蔵庫の中身も、勝手になんか飲んでていいから」


「そんなに自由にしていいの?」

「変なところ開けなきゃね」


 そう言って、にこっと笑う。


 立ち上がるとき、バランスを取るみたいに、軽くソファの背に手をつく。

 その手が、一瞬だけ俺の肩に触れた。


「すぐ戻るから、逃げないでね」


「逃げねえよ」


 口ではそう答えながら、「逃げる」って選択肢が本気で頭から消えているのに気づく。


 バスルームのドアが閉まって、すぐにシャワーの音がし始めた。

 リビングには、さっきまで隣にいた体温の余韻と、ソファの沈みだけが残っている。


「……水瀬、沙希」


 さっき聞いたばかりの名前を、小さくもう一回つぶやく。

 それだけで、妙に胸のあたりがあったかい。


 そのときだ。


 ローテーブルの上で、パッと明かりが灯った。

 バイブの小さな震えと一緒に、沙希のスマホの画面が点く。


 見るつもりはなかった。

 ただ、位置的に、通知の一行目が自然と目に入ってしまう。


『今日、元気なさそうだったけど大丈夫? 無理してない?』


 表示名は、男の名前だった。

 続きの一行が、すぐに追いかけてくる。


『よかったら明日、ご飯でもどうかな?』


 さっきまでゆるんでいた頭の中が、一瞬で冷える音がした気がした。

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2026年1月10日 11:08 毎日 11:08

浮気された夜、コンビニ前で酔ったお姉さんに拾われた Re.ユナ @Akariiiii

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