第7話

 実乃里のストローがぴたりと止まったあと、ゆっくりとまばたきをする。


「は?」


「文字通りの意味なんだけど」


「ちょっと待って。説明の順番考えて。どこからツッコめばいいのか分からない」


「わたしも分からないよ」


 自分の発言に自分で頭を抱えながら、「やめとこっか」で終わった自分の恋愛と、昨日のコンビニ前の光景をざっくり話す。

 その後も細かい描写はところどころぼかしたけれど、今朝までの要点はだいたいそのまま話した。


 実乃里は途中から相槌も忘れて、パスタを巻く手を止めていた。


「……で、今も家にいるかもしれない、と」


「かもしれない、ね」


 フォークを置いて、彼女がため息をひとつ吐く。


「水瀬沙希、なに? 人生で一回くらい盛大に事故ってみようと思ったの?」


「事故るつもりはなかったんだけど……気づいたら事故ってた」


 ここまで口に出してみると、自分でも笑うしかなくなる。


「でもさ、かわいそうでさ」


 思わず、そう付け足していた。


「昨日の自分もそうだったけど、あの子も完全に行き場なくしててさ。『今日はとりあえずうち来る?』って言ったときの顔が、なんかもう……」


「『かわいそうだから』で知らない男を家に入れる女、いる?」


 実乃里の声が、いつもより少しだけ低くなる。


「う……」


「いや、ゼロではないけどさ。沙希のタイプじゃなくない?」


 ストローを指でくるくる回しながら、彼女は続ける。


「たとえばさ、雨の中で捨て猫見つけたとして。『かわいそうだから』って家に連れて帰る人はいると思うの」


「うん」


「でも、彼は猫じゃないし、『家に置いたまま仕事行く』は、けっこうレアケースじゃない?」


「……例えが刺さる」


「でしょ」


 実乃里は少しだけ笑ってから、真面目な顔に戻る。


「かわいそうって気持ちは分かるよ。振られた直後って、ほんとに世界終わったみたいになるし」


「実感こもってるね」


「そりゃね」


 軽く肩をすくめてから、実乃里はテーブルの上で指を組んだ。


「でもさ、『かわいそうだから』だけで家に入れるの、わたしは違うと思う」


「……じゃあ、何?」


「『いてほしかったから』じゃないの?」


 言葉の意味を理解する前に、心臓のほうが先に反応した。

 胸の真ん中を、きゅっと摘まれたみたいに痛い。


「そ、それは……」


「昨日振られて、誰もいない部屋で、ストロング飲んで。コンビニにお酒買いに行って」


 一つ一つを指で折りながら、実乃里は淡々と続ける。


「そこで、荷物抱えた男の子見つけて。『今日うち来る?』って言ったの、誰?」


「……わたし」


「で、そのあと『出てって』って言って。本当に出ていこうとしたのを、もう一回『入れば?』って言ったの、誰?」


「……わたし」


「でしょ」


 返事を待たずに、実乃里はアイスコーヒーをひと口飲む。


「かわいそうなのはたしかにそうなんだろうけどさ。それだけなら、コンビニ前で少し話聞いて、『終わり』のほうが安全だよ」


「まあ……そうだね」


「家に入れて、一緒に飲んで、ベッドまで連れていって、朝まで追い出さなかったのは、ぜんぶ沙希の選択でしょ」


 言われてみれば、本当にその通りだった。


(勢い、だけじゃない)


 あのときの自分の足と口は、ちゃんと自分の意思で動いていた。

 ストロングの酔いと、「どうでもよくなりたい」が後押ししたのは間違いないけれど。


「……いてほしかった、のかもね」


 やっとその言葉が口から出たとき、肩から少しだけ力が抜けた。


「だから、かわいそうといてほしいがごちゃまぜになって、『入れば?』って言ったんだと思う」


 言い終わってから、少しだけ怖くなって実乃里の顔を見る。

 彼女は、呆れたような、それでいてどこか優しい目をしていた。


「うん。そっちのほうが、沙希っぽい」


「褒めてる?」


「半分だけ」


 実乃里は小さく笑ってから、真面目な声に戻る。


「でさ。今の沙希、何が一番怖い?」


「……家に帰って、誰もいないこと」


 迷わず出てきた答えに、自分で驚く。


「でも、いたらいたで、どうしたらいいか分かんなくなる」


「つまり、いてほしいけど、いなかったときの自分の顔を見るのも怖いってことね」


「……そんな感じ」


「だったらさ」


 実乃里は、フォークを置いて身を乗り出した。


「今日、玄関のドア開けるときの自分の顔、ちゃんと見てきなよ」


「え?」


「鏡って意味じゃなくて。心のほう」


 そう言って、彼女は軽くウインクしてみせた。


「いなかったら、『そっか』ってガッカリして。いたらいたで、『よかった』ってちゃんと喜ぶ」


 それは、当たり前のようでいて、今まで考えてこなかった選択肢だった。


「どっちでもいいようにしようとするから、余計わけわかんなくなるんだよ」


「保険かけてたつもりだったんだけどなあ」


「保険っていうより、逃げ道でしょ」


 図星すぎて、笑うしかない。


(逃げるの、癖なんだよな)


 元カレに振られたときも、心のどこかで「これで楽になる」と思っていた自分がいた。

 ちゃんと諦める勇気が足りなくて、今こうして別の形でつまずいている。


「……今日、帰るの怖いな」


「怖いよ。怖いけど、たぶん今日逃げると、明日も明後日も逃げる」


「厳しい」


「厳しくない。沙希のそうやってすぐ逃げるとこ、癖になると幸せになれないよ?」


 実乃里は最後にそう言って、ランチプレートのサラダを口に運んだ。


「とりあえずさ、仕事はちゃんと終わらせよ」


「……はい」


 返事をしながら、わたしはコップの水滴を指でふき取る。


(今日、玄関のドアを開けるとき)


 そこで何を感じるのか。

 どんな顔をしてるのか。


 それをちゃんと、自分で見てこよう。



 定時を少し過ぎて、ようやくデスクを離れた。

 パソコンをシャットダウンして、デスクの上を簡単に整える。


 オフィスのガラス扉を出た瞬間、昼間より少し冷えた空気が頬を撫でた。


 電車の中は、朝よりも人が多かった。

 スーツ姿の人たちの間で、つり革を持ちながら窓の外をぼんやり見る。


(いなかったら、どうしよう)


 逆に。


(もし、いたら)


 ソファに座ってテレビを見ている姿や、テーブルの前でスマホをいじっている姿が、勝手に脳内で再生される。


(たぶん、ほっとする)


 その「ほっとする」を、ちゃんと自分で認めるのが、少しだけ怖い。

 でも、今日くらいは、それをごまかさないって決めた。


 最寄り駅に着くと、ホームの風が一段冷たくなった。

 改札を抜けて、夜の街を歩く。コンビニの光を横目に、自分の住んでいるマンションの姿が遠くに見えてきた。


 エントランスのオートロックを抜けて、エレベーターのボタンを押す。

 扉が閉まって、数字が一つずつ増えていくあいだ、心臓の鼓動だけが妙に大きく感じられた。


 五階で扉が開く。

 自分の部屋のドアの前に立つ。

 ポーチの中から鍵を取り出す手が、わずかに震えているのが分かった。


(いなかったら、残念がっていい)

(いたら、嬉しがっていい)


 昼間の実乃里の言葉を、もう一度思い出す。


「……よし」


 誰に聞かせるでもない小さな声でつぶやいて、鍵穴に鍵を差し込んだ。


 カチャリ、と回る金属音。

 ドアをゆっくり開けた瞬間、胸の鼓動が、自分でも笑えるくらい早かった。

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