第6話
電車の窓に映った自分の顔は、思ったより普通だった。
寝不足のクマはどうにかコンシーラーでごまかして、前髪もギリギリ許されるラインには整えてある。ジャケットに黒のパンツ。どこからどう見ても、そこらへんにいる二十三歳・会社員。
(……家に、知らない男がいること以外は)
心の中でだけ、その一文を付け足す。
その瞬間、状況のやばさが一気に増した気がして、思わず小さくため息が漏れた。
つい一時間前まで、同じベッドにいた。
目覚ましの音で起きられなくて、胸のあたりにぺったりくっついたまま、「あと三分……」とかわけの分からないことを言っていたのは、わたしのほうだ。
(抱き枕にしてた記憶は、部分的に消したい)
思い出すたび、耳の裏が熱くなる。
「七時半だよ」と耳元で言われて飛び起きた瞬間の恥ずかしさも、まだ生々しい。
まだ整えきれていないベッド。
くしゃっとなったシーツの上で、所在なさそうに座っていた直哉。
「帰ってきたら、ちゃんと話そう」と言った自分の声が、やけに落ち着いて聞こえたのも、不思議だった。
(言ったの、わたしなんだよね)
酔いもほとんど残っていなかったし、記憶も鮮明にある。
(……ほんとに、大丈夫? わたし)
吊り広告の健康食品の写真をぼんやり眺めながら、自分にツッコミを入れる。
知らない男を拾って帰って、一晩同じベッドで寝て、朝になって会社に出社している女。
整理すると、余計にアウトだ。
(でも……)
つり革を持つ手に、少しだけ力が入る。
(ちゃんと追い出すことも、できなかった)
結局わたしはしばらくしてからチェーンを外して、ドアを開けた。
廊下で体育座りしていた直哉を見つけて、「入れば?」と言った。
その瞬間の気持ちを、まだうまく言葉にできていない。
(かわいそうだったから?)
その言い訳だけでは、あの時の感情を説明することはできなかった。
◇
朝の社内メールは、いつも以上に頭に入ってこなかった。
「水瀬さん、例の見積もりの件、先方から返信きてる?」
「えっと……はい、中身見ておきます」
ディスプレイの右下に並んだアイコンをぼんやり眺めながら、返事だけは自動的に出てくる。
IT系の会社で、営業サポート担当。
数字の確認と、スケジュール調整と、資料の整形。やることは多いけど、難しいわけじゃない。いつもなら淡々とこなせるルーティンだ。
なのに今日は、ひとつメールを開くたびに、頭のどこかが別のことを考えている。
(今頃、何してるんだろ)
(ちゃんと起きたかな。テレビつけたかな。……勝手に何か触ってないといいけど)
マウスを動かしながら、心だけが勝手に動いていく。
これで、家に帰ったとき何もかも消えていたら、それはそれで安心だ。
荷物も本人もきれいさっぱりいません、ってなっていたら、「そうだよね」って苦笑いしながら元の生活に戻ればいい。
でも、そのイメージを頭の中で再生してみると、胸のあたりが少しだけ沈んだ。
(いなかったら……へこむ、よね、多分)
吐き出すほどじゃない溜め息が、胸の中でひとつ膨らんで、そのまましぼんでいく。
モニターの右上に、時刻が点滅していた。九時二十八分。
始業からまだ三十分も経っていないのに、時計ばかり見ている。
(どっちにしても、今日帰るまで分かんないんだよね)
家にいてほしいのか、いないほうが楽なのか。
自分で自分に問いかけてみても、答えはどちらにも振り切れなかった。
「……集中」
小さく口の中で言って、画面に視線を戻す。
未読メールの件名をひとつひとつクリックしていく。数字と日付と敬語の海の中に、家のベッドも廊下の体育座りも、いったん沈めた。
◇
「ねえ、沙希。今日お昼どうする?」
「……え?」
気づいたら、画面の前でぼーっとしていたらしい。
隣の席から身を乗り出してきたのは、同期の藤井実乃里だった。
ふわっとしたベージュのカーディガンに、ゆるいまとめ髪。
社内で「話しかけやすい人 No.1」を選ぶならら、たぶん優勝するタイプ。
「もう十二時すぎてるよ。お腹すいた」
「あ、ほんとだ……ごめん、全然時計見てなかった」
「珍しいね。いつも一番に『行こ』って言うくせに。なに、恋?」
「その雑な推理やめてくれる?」
反射的に突っ込んだのに、心臓が少し早くなる。
「コンビニ? 外?」
「外行こ。外の空気吸いたい」
「はいはい、じゃあいつものとこね」
実乃里が笑いながら立ち上がる。
自分のスマホと社員証をつかんで、わたしもそのあとを追った。
◇
会社のビルを出て少し歩いたところに、小さなカフェがある。
ランチタイムだけ妙に混む、パスタとサンドイッチが売りの店。
窓際の二人席に座って日替わりパスタを頼み、ドリンクバーのアイスコーヒーを手に戻る。
「で?」
椅子に腰を落ち着けるなり、実乃里がストローをくわえながらこちらを覗き込んできた。
「で、ってなに」
「午前中の水瀬沙希、明らかにどこかに心を置いてきました顔だったけど。何かあった?」
「……そんな顔してた?」
「してた。いつもの三割増しで窓の外見てた」
三割って具体的だな、と思いながら、コーヒーをひと口飲む。
冷たい液体が喉を通り過ぎても、胸のモヤモヤはあまり薄くならない。
誤魔化すのは、たぶん無理だ。
実乃里には、だいたいバレる。
「昨日さ」
「うん」
「知らない男の子、拾って帰った」
実乃里のストローが、ぴたりと止まった。
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