第5話
「ピピピピピ」という甲高い音が、枕元のどこかでしつこく鳴り続けていた。
視界の真ん中には、見覚えのない白い天井。そこでようやく、「ルナの部屋だ」と思い出す。
問題は、それだけじゃない。
ルナが、昨日の体勢のまま、しっかり抱きついて寝ていた。
Tシャツ越しに伝わる体温は、思ったより高い。首元にかかる息が、一定のリズムで上下している。顔は俺の胸元あたりに埋まっていて、寝癖で跳ねた髪が、ところどころ肌にくすぐったい。
目覚ましは、そのすぐ横で鳴り続けていた。
「……起きろよ」
小声で言ってみるが、まったく反応がない。電子音は容赦なく続く。
仕方なく、空いているほうの手を伸ばしてスマホを手探りで探し、音を止める。
「おい、ルナ。起きろ。会社は」
耳元で呼びかけると、ようやく腕の力が少しゆるむ。髪の間から、寝ぼけた声が漏れた。
「……んー……もう三分……」
よくある「延長交渉」の台詞だった。声は完全に寝起きで、昨日の色っぽさとは違う意味で可愛らしい。
「三分でどうにかなるレベルの寝坊じゃないだろ」
「なる……夢の中なら……」
そこでまた、ふにゃっとした力でしがみついてくる。Tシャツの胸元を掴む指先が子どもみたいに甘えていて、思わず苦笑いが出た。
「ルナ、本当に起きないとヤバい時間なんじゃないのか?」
「……何時……?」
「七時半」
「…………は?」
胸元に埋まっていた顔が、ぴくりと動く。数秒の間のあと、ルナが勢いよく上半身を起こした。寝癖で跳ねた髪が揺れ、Tシャツの裾が少しずり下がる。
「七時半!? やば、普通にやばい!」
さっきまでの「あと三分」が嘘みたいに、目が覚めた顔をしている。スマホをひったくるように手に取り、画面を見て、さらに顔をしかめた。
「うわ、マジで七時半……なんで最初のアラームで起きなかったんだろ、バカじゃん……」
「いや、ずっと抱き枕してたのはそっちだからな」
「……知らない。記憶にない」
口ではそう言いながらも、自分でも分かっているのか、耳の先だけがうっすら赤い。布団をめくってベッドから降りる動きも、どこかぎこちない。
「シャワー……五分……いや三分……メイクどうしよう……」
独り言を呟きながら、部屋の中を小さくぐるぐる回る。寝ぼけているのに、頭の中だけ全力でフル回転しているのが見て取れた。
「直哉」
「ん」
「とりあえず、今は何も考えなくていいから、そこにいて」
「命令が雑すぎないか」
「雑な朝だから仕方がないの」
そう言い捨てて、ルナはほぼダッシュでバスルームに消えていった。
扉の向こうから、水音と、なにかしらのフタを開け閉めする音が立て続けに聞こえる。
ベッドの上に取り残された俺は、天井を見ながら、昨日の夜を思い返した。
布団には、まだルナの体温がうっすら残っている。抱き枕と言われて、何もできなかった夜のことを思うと、胸のあたりがむず痒くなった。
数分後、バタバタと音を立てながらルナが戻ってくる。髪は簡単にまとめられて、メイクは最小限。でも、それでも「仕事に行く人間」の顔になっていた。Tシャツからブラウスに着替え、ジャケットを片手に抱えている。
「ごめん、マジで時間ない。今から走れば、ギリ間に合うかもって感じ」
「そんな状況で人拾ってる場合じゃなかったんじゃないか」
「それは昨日の私に言って。今日の私はもう知らない」
言い切り方が、妙に清々しい。
「直哉さ」
玄関に向かう途中で、ふと振り返る。その目元には、さっきまでの寝ぼけた可愛さと、仕事モードの真面目さが両方混ざっていた。
「今日、とりあえずここにいていいから。勝手に出てってもいいけど、もしまだいるなら、帰ってきたときにちゃんと話そう」
「……話すって、何を」
「昨日の続きとか、今日からのこととか。いろいろ」
そこで一度言葉を切って、ジャケットの袖に腕を通す。
「とりあえず今は、『直哉を朝まで追い出さなかった私、えらい』って自己評価だけ持って会社行くから」
「自分で言うなよ」
「自分で言わないと誰も褒めてくれないから」
笑いながらそう言うと、ルナはドアノブに手をかける。
「冷蔵庫の中のもの、適当に食べていいよ。お風呂も、もう一回入りたかったら入っていい。ただし……」
「ただし?」
「勝手にクローゼット開けない。あと、何となく察してほしいところは、察して」
「最後が一番難しいんだけど」
「じゃあそれは、帰ってから説明する」
足元でヒールをつっかけながら、スマホをポケットに滑り込ませる。
「じゃ、行ってきます。また夜」
それくらいの軽さで言って、ルナは部屋を出て行った。玄関ドアが閉まり、外の気配が遠くなる。
静けさだけが残った部屋で、俺はしばらくベッドの端に座っていた。さっきまで隣にいた体温と、「ちゃんと話そう」という言葉だけが、変にくっきり頭に残っている。
◇
ルナが出て行ってから、一時間ほどは何もする気になれなかった。
ベッドから這い出して、リビングのソファに座り、ぼんやりテレビをつけて、何を見ていたのかも覚えていないニュースを眺める。
(……このまま一日ダラダラしてたら、さすがに人として終わってるな)
そう思ったあたりで、ようやく体が動いた。
まず、部屋を見渡す。昨日は半分も見えていなかった「生活の細かいところ」が、明るい時間のせいか、妙にはっきり目に入ってくる。
ローテーブルの上の空き缶とグラス。キッチンのシンクに残った食器。ソファの背もたれに引っかけられたカーディガン。
その真ん中に、玄関脇の「一時避難中の荷物」として置かれた、俺のスポーツバッグとゴミ袋が、場違いな存在感を放っている。
「……とりあえず、片づけるか」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、シンクに向かう。
グラスと皿を洗い、コンビニ弁当の空き容器をまとめて捨てる。ローテーブルの上を拭いて、クッションを整える。床に落ちていたペットボトルをゴミ袋に放り込んでいく。
他人の部屋を勝手に片付けていることへの躊躇いは、もちろんあった。
でも、それ以上に、「泊めてもらった」という事実への負い目のほうが勝っていた。
(何もしないよりはマシだよな)
掃除機をかけるついでに、ベッドルームも覗く。
ベッドの足元のほう、少し開いたクローゼットの隙間から、柄の違うシャツの袖が見えている。明らかに女物とは違うサイズ感で、色も落ち着いたシンプルなものだった。
(……彼氏、いたんだよな、普通に)
昨夜、ベッドサイドに置かれていたメンズ用の小物と、洗面台の横に並んでいた二本目の歯ブラシも思い出す。あのシャツも、その誰かのものだろう。
それを見ているときの自分の胸の感覚に、少し遅れて気づいた。
胸の奥が、もやっとする。喉のあたりに、小さな棘が引っかかっているみたいな違和感。昨日までは、ただ「知らない女」としてしか見ていなかったはずなのに。
(……なんだよこれ。嫉妬かよ)
自分で自分にツッコミを入れて、ため息をつく。
昨日の夜、役に立たなかった男が、他人の彼氏に向かって内心で牽制しているのが、滑稽すぎて笑えた。
それでも感情の正体がそれ以外に思いつかないから、余計にタチが悪い。
「まず、バイトだよな」
気持ちを切り替えるように、スマホを手に取る。
ルナの部屋のダイニングチェアに腰を下ろし、求人サイトを開いた。
バイト欄をスクロールしながら、条件をざっくり絞る。時給とシフトと勤務地。前と同じような飲食店の求人もあれば、コールセンターや倉庫作業の募集もある。
画面を眺めているうちに、バイト先に連絡もせずに行かなくなって、「もう無理かも」と決めつけた瞬間の、自分の情けなさを思い出す。
(また同じことしたら、今度はマジで終わるな)
ルナに一度追い出されて、廊下で体育座りをしていたときの気持ちも思い出す。
「今回もダメだったら、本当に行き場ないな」と、頭のどこかで本気で思っていた。
だからこそ、「仕事探す」という行動が、「ここにいていい理由」の最低ラインに思えた。
何件か気になるバイトに応募し、面接の日時もいくつか決めた。正直、不安のほうが大きい。
それでも、ルナにこれ以上、情けない男だと思われたくなかった。
◇
夕方が近づいても、ルナからの連絡は来なかった。
テレビを消して、ふとスマホを見たときに、連絡するかと自然に思った。
その瞬間、「いや、そもそも交換してねえわ」と気づいて、変な間抜けさに自分で笑ってしまった。
(本名も、知らないんだよな)
時計を見ると、夜の九時を回っていた。
仕事のあとに何か予定があるのか、それとも単純に残業なのか。考えれば考えるほど、昼間見た「男の影」が気になっている自分に気づく。
(別に、俺には関係ないだろ)
そう思おうとしても、胸の奥のもやもやは消えなかった。
知らない女の部屋で、知らない女の帰りを待ちながら、知らない男の存在に嫉妬している。
客観的に見れば、だいぶおかしな状況だ。
それでも、「じゃあ出ていこう」とは、どうしても思えなかった。
玄関の方から、扉の開く音がしたのは、その少しあとだった。
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