第4話
もう一度部屋に戻ってからは少し気まずかった。
ルナは何も言わずにタオルを放ってきて、「シャワー浴びる?」とだけ聞いた。俺が生返事をすると、「じゃ、どうぞ」と、さっきの事が無かったかのような顔でキッチンのほうに消えた。
お湯を頭からかぶりながら、さっきの「出てって」と「入れば?」が、交互に頭の中をぐるぐる回る。
この部屋にいること自体がボーナスみたいなもんだ、と自分に言い聞かせて、余計なことは考えないようにした。
シャワーを出ると、Tシャツとジャージの下だけが用意されていた。
リビングに戻ると、ルナがいた。さっきと同じTシャツに、短いショートパンツ。化粧は落ちていて、違った魅力があった。
「ベッド、一個しかないんだよね」
引き戸の向こうを親指で指しながら、ルナが言う。
「床でいいよ。ソファでも」
「バカ。そんなことされたら、こっちのほうが寝づらいでしょ」
即答だった。
譲る気はないらしい。
「一応シングルじゃないし。寝返りうたなきゃ二人はいけるって」
「一応って便利な単語だな」
「でしょ」
そう言って、ルナは先にベッドルームへ入っていく。
白いシーツとグレーの布団カバーが、さっきより現実味を持って目に入ってきた。
電気はスタンドライトだけがついている。
「そっち側、落ちたら死ぬよ」
「脅しのレベルが極端なんだよ」
言われた側に回って、そっと布団の端をめくる。
体を滑り込ませると、マットレスが静かに沈んだ。
少し遅れて、反対側からルナももぐり込んできた。
間に、ぎりぎり手のひら一枚分くらいの距離。
「……消すよ」
「ああ」
スタンドライトがぱちんと落とされる。
背中合わせのまま、しばらく何も起きなかった。
さっきまでの会話の続きも、謝りたい言葉も、全部言葉には出来なかった。
その沈黙のあとで、布団の中の気配がゆっくり動いた。
背中側のシーツが、するりと引っ張られる。
ルナの体温が、じわじわこっちに近づいてきた。
何も言わないまま、背中に柔らかな感触が当たる。
体のラインがTシャツ越しに分かる距離。
次の瞬間、腰のあたりに細い腕が回ってきた。
ぐいっと引き寄せられて、背中と胸がぴったりくっつく。
「……おい」
一応、口だけは抗議してみる。
けれど、腕はほどけない。むしろ、脚まで静かに絡んできて、完全にホールドされた。
背中越しの温度と、柔らかな感触、首筋にかかる息だけで、ベッドの上で死んだはずのスイッチが、じわじわ復旧していくのが分かった。
(タイミング……今じゃないんだけどな)
頭ではそう思っても、体は空気を読んでくれない。
布団の中で、そっと片手を動かす。
ルナの腕から、腰のあたりへ。様子をうかがうみたいに、指先だけ滑らせる。
ぱしん、と小さな音がした。
すぐさま、その手の甲をルナがはたく。
「ダメ」
短く、それだけ。
「ちょっとくらい──」
「ちょっとも、ダメ」
言葉はきっぱり拒否なのに、腕の力は緩まない。
背中ごしの体温は、むしろさっきより近くなっている。
暗闇の中で、ルナが小さく息を吐いた。
「今日はね」
そこでようやく、理由のほうが足された。
「直哉、抱き枕だから」
「……最初に言っとけよ、それ」
「最初に言ったら、こんなにくっつけないでしょ」
理屈はむちゃくちゃなのに、妙に説得力がある。
「さっきさ」
耳のすぐ後ろあたりに、かすかな声が落ちてくる。
「全然反応してくれなかったせいで、正直だいぶ凹んでたんだけど」
そこで言葉がいったん切れて、腕の力が少しだけ強くなった。何かを確認するようにルナの指先が動く。
「今はちゃんと反応してるから、まあ……ちょっとだけ機嫌直った」
「……だったら許してくれません?」
「許してるよ。でも、それ以上はナシ」
そう言いながらも、ルナは自分からもう一段階、巻きついてくる。
胸のあたりと腰のラインが、さっきよりはっきり分かる密着具合になった。
「直哉がバカなのは、今日一日でよく分かったからさ」
「厳しいな」
「でも、完全に何も感じてないわけじゃないの分かったし。そこだけは、ちょっと救われた」
声は小さいのに、その一言だけ妙に素直だった。
またしばらく沈黙になる。
そのあいだもルナの腕は外れない。じわじわ力が増していく。
さっきからこっちはまったく落ち着けない。
布団の中で身じろぎするたびに、変なところまで意識が引っ張られる。
「……なあ」
小声で呼びかけながら、もう一度だけ胸のあたりに指先を伸ばす。
ぱしっ。
さっきより早く、手の甲をはたかれた。
「しつこい」
「ワンチャンくらい……」
「そのワンチャンを今日あげた結果が、さっきだから」
ルナは、呆れたみたいに小さく笑う。
「ちゃんと私のタイミングで反応するようになったら、考えてあげる」
「採用試験みたいに言うなよ」
「今は落第。だからおとなしく抱き枕やってて」
そう言いながらも、脚はぴたりと絡んだまま離れない。
「……重くないか?」
「重い。けど、それがいいの」
ルナはあくび混じりに答えた。
「今日はさぁ」
眠気とアルコールでとろけかけた声が、背中に落ちる。
「ちゃんと何もしてこないくせに、ここにいる、っていう状態が欲しいの」
理屈だけ聞けば、だいぶわがままだ。
けれど、その言い方が妙にずるかった。
それっきり、ルナは本格的に黙る。
呼吸がゆっくりになって、背中越しに胸の感触だけがはっきり伝わってくる。
完全に包まれたまま、こっちはひたすら目が冴えていた。
(動いたら怒られるしな……)
ちょっとでも身じろぎすると、「ダメ」とか「起きてるなら静かにして」とか言われそうで、結局ほとんど動けない。
暗闇の中で、天井の位置を想像しながら時間だけが溶けていく。
腕も腰も変な角度で固定されて、体のあちこちがじんじんしてきた。
それでも、ルナの腕は最後までほどけなかった。
どれくらいたったころか分からない。
カーテンの隙間が、うっすらと灰色に明るくなり始めた頃、ようやく少しだけ意識が途切れる。
目覚ましが鳴る前から、寝不足確定の二日目が始まることだけは、ぼんやり理解していた。
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