第3話

 耳元の「……しよっか」が、頭のどこかにこびりついたままだった。


 ルナの指先がシャツの裾をつまんだまま、ぐいっと立ち上がる。ソファから腰を浮かせた俺の手を、そのまま当たり前みたいにつかんで引っ張る。


「こっち」


 ルナの声は、さっきより甘く、酔いと、これからを決めてしまったあとの覚悟が伝わった。


 ベッドルームは、想像していたよりシンプルだった。


 それでも、ベッドというだけで空気の温度が一段違って感じる。


「座って」


 言われるままベッドの端に腰を下ろすと、マットレスが静かに沈んだ。ルナはその前に立って、少しだけ息を整えてからつぶやいた。


「ねえ、直哉」

「ん」

「キスしていい?」


 許可を取るタイプかよ、とか、ツッコミはいくらでもあった。けど、口から出たのは「うん」だけだった。


 次の瞬間には、ルナの顔が近づいてきた。


 唇が触れる。最初はそっと、探るみたいに。少し離れて、今度はさっきより長く。2回目と3回目で、「キスしてる」という事実が一気に現実になる。


 そこから先は、理屈よりも手が自然と動いていた。腰に回した片腕と、肩に置いた片手。ルナもそれに合わせて、ゆっくり体重を預けてくる。倒れ込むほどじゃないのに、ベッドのスプリングがきしんだ。


 肌に触れるたびに、頭より先に心拍数だけが上がっていく。ルナのTシャツ越しに伝わる体温、太ももに乗った重さ、喉元でかすかに震える息。全部が、「これから先」のイメージを勝手に補完していった。


(……あヤバいかも)


 問題は、そこからだった。


 キスが少し深くなったあたりで、違和感に気づく。体がついてこない。特に、一番期待されている部分が。


(おい、起きろ)


 心の中で、何回か呼びかけてみる。返事はない。むしろ、静かに寝落ちしている。


 酒のせいだ、とすぐ分かった。さっきからストロングを空け続けた結果、脳だけが妙に冴えて、肝心なところのスイッチが入らない。


 焦りが、喉のあたりからじわじわ上がってくる。


 だから、別のところで埋めようとした。唇を追いかけて、首筋に舌を滑らせて、背中をなぞる。ルナの体はちゃんと反応してくれている。息が少し荒くなって、手が俺のTシャツをつかむ。


 その「しっかりと反応してくれてる」感じが、逆にプレッシャーになった。


(頼むから起きてくれ。今だけでいいから)


 祈るみたいな気持ちで自分の体を意識する。変化は、ない。うっすらと血が集まりかけてはいるのかもしれない。でも、「戦える状態」には程遠かった。


 気づいたのは、多分同じタイミングだったと思う。


 ルナの動きが、ふっと止まる。


「……ねえ」


 耳元で、さっきまでと違う温度が一段下がった感じの声だった。


「ん?」

「これさぁ」


 ルナは少し体を離し、俺のほうをまっすぐ見た。さっきまで潤んでいた目が、別の意味で冴えている。


「お酒のせいってことにしとけばいい?」


 笑っているのに、全然冗談に聞こえなかった。


「いや、その……」


 言葉が出ない。出てくる前に、「ごめん」とか「待って」とか、いくつかの候補が喉で渋滞する。


「いや、そのじゃなくない?」


 ルナはベッドの上に正座みたいに座り直す。俺も、途中の姿勢のまま固まった。


「普通さ、こうなってて今日ちょっと無理かもってなるパターンってさ」


 グレーの布団カバーを、指先でくしゃっとつかむ。


「私に魅力がないか、私じゃない誰かで頭いっぱいか、どっちかなんだよね」

「待て、それは極端すぎ──」

「極端にさせてるの、そっちだから」


 今度ははっきり、怒りの温度が混ざった声だった。


「ここまで来て、反応しないって普通に傷つくんだけど?」


 言われていることは、正しい。言い訳の余地は、酒くらいしかない。


「違う。ほんとに、酒でさ。ストロング何本も飲んだら、普通にこうなる──」

「その言い訳が一番傷つくよ。」


 食い気味に遮られた。


「ただ、お酒のせいで反応しないだけってことでしょ。それ、慰めになってないから」


 そこまで言われて、さすがに反論しようと口を開く。


「違う。お前が魅力ないとか、そういう話じゃ──」

「お前?」


 ルナの目が、すっと細くなった。


「あ、いや、ルナ」

「ねえ直哉」


 名前を呼ぶ声だけ、妙に静かだった。


「正直に答えて」


 そこだけは、逃げられない空気だった。


「今さ。頭のどっかに、まだ追い出してきた人いるでしょ」


 さっきリビングで聞かれた質問と、ほとんど同じ内容だ。でも、ベッドの上で聞かれると、重みがまるで違った。


「……ゼロじゃないと思う」


 嘘ついてごまかすよりはマシだと思った。そう答えた瞬間、ルナの口元がかすかに歪む。


「そっか」


 それだけ言って、ルナはベッドからするりと降りた。床に置いてあったTシャツを拾って、乱暴に頭からかぶる。


「ごめん、やっぱ無理」


 Tシャツの裾を引き下ろしながら、きっぱりと言った。


「私さ、別に本命にされたいとか重たいことは言わないけど」


 部屋のスイッチに手を伸ばす。スタンドライトだけが残って、ベッドルームの明かりが落ちた。


「せめて、『今この瞬間くらいは一番でいさせてよ』って思うんだよね」


 その一言のほうが、さっきの「しよっか」よりよっぽど生々しかった。


「……ルナ」

「出てって」


 リビング側の扉を開けながら、背中越しに短く言う。


「今日はさすがにもう無理。そういう顔見てたら、余計に気分落ちると思うから」


 ベッドから落ちた俺の服を、まとめてこっちに放り投げた。


「ごめん。ほんとに今日は、ここまで」


「ごめん」が、さっき彼女が言われた「ごめん」と重なる。きれいに終わらせる為の言葉だ。


 しばらく何も言えないまま、その場で着替える。Tシャツとジーンズを身につけながら、さっきまでの汗と、まったく違う種類の汗がにじんでいく。


 玄関まで送っていくあいだ、ルナは一度もこっちを見なかった。代わりに、玄関ドアの横のインターホンのランプばかり見ていた。


「鍵、閉めるから」


 靴を履き終わった俺に、それだけ告げる。


「……悪かった」


 何がどう悪かったのか、言葉にすると安っぽくなりそうで、それ以上は続かなかった。


「うん。分かってる」


 返事だけは柔らかい。でも、その柔らかさは「許す」のニュアンスではなかった。


「おつかれ、直哉君」


 最後にそう言って、ドアが閉まった。内側でチェーンの音がして、俺は1日で二度も家から追い出されてしまった。


 ◇


 しばらく、何も考えられなかった。


 エレベーターに乗る気力もなくて、その場から一歩も動かずに廊下にしゃがみ込む。さっきまでいたルナの部屋のドアを背中に感じながら、膝を抱えた。


 マンションの五階の廊下は、夜中のわりに明るい。非常灯と、足元の小さい照明。外の車の音は、ほとんど聞こえない。


 ポケットからスマホを出して画面をつける。時刻は二十三時すぎ。バッテリー残量、二十パーセント。どっちも、今の状況をどうにかしてくれる数字ではなかった。


(何してんだ、俺)


 さっきまであったベッドの感触と、ルナの体温と、「出てって」の声だけが、頭の中でぐるぐる回る。


 今日一日の流れを順番に追っていくと、「ダメ男のジェットコースター」みたいなプロフィールが出来上がる。


(とどめに、廊下で体育座りかよ)


 行く場所は、相変わらずどこにもない。


 だったらネットカフェでも……と一瞬思って、財布の中身を思い出す。三日持たない計算は、いまだに変わっていない。


(せめて今夜だけでも、どっか屋根の下に……)


 そう考えている時点で、俺のプライドはかなりの部分が死んでいた。ベッドの上では男として、廊下では人としての自信が崩れていく気がした。


 何分くらい座っていたのか、自分でも分からない。スマホの画面はとっくに消えていて、足の裏が痺れてきた頃、背中越しに小さな音がした。


 ガチャ、とチェーンが外れる音。扉が動く感触が背中から伝わってくる。


 慌てて立ち上がるタイミングを逃して、そのまま振り返る。ゆっくりとドアが開いて、隙間からルナが顔を出した。


 さっきと同じTシャツに、短いショートパンツ。さっきより化粧は落ちていて、目元も少しにじんでいる。


 ルナは一瞬だけ目を丸くして、それから小さくため息をついた。


「……ほんとにいた」

「いなかったほうが良かったか?」

「それはそれでムカつく」


 ほんの少しだけ視線をそらす。廊下の非常灯を見上げて、何かを飲み込むように喉を動かした。


「ねえ直哉」

「うん」


 今度の声は、さっきの怒りも、ベッドの熱さもどっちも冷めたようだった。アルコールも、だいぶ抜け始めているのかもしれない。


「入れば?」


 視線を合わせないまま、短くそう言う。


 さっきの「出てって」と同じくらい短いのに、意味は真逆だった。


 喉の奥で、いくつかの言葉が浮かぶ。「ありがとう」とか「ごめん」とか「さっきは」だとか。結局、どれも言葉にはならなかった。


「……お邪魔します」


 数時間前、初めてこの部屋に入ったときと同じセリフしか出なかった自分に、少しだけ呆れながら、もう一度ルナの部屋に足を踏み入れた。

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