第2話 

「ねえ、今日うち来る?」


 そう言われたあとの数秒が、やけに長かった気がした。ストロングの缶を持ったまま固まっている俺を置いて、彼女は先に立ち上がる。


 白いコンビニの明かりから少し離れたところで、振り返りもせずに「歩ける? こぼさないでね、それ」とだけ言った。


 返事の代わりに缶を持ち直して立ち上がる。片手にはストロング、もう片方にはスポーツバッグとゴミ袋。


 自分で見ても、「ダメ男セット」そのものだった。


 駅前の光から一本外れるだけで、街の音は驚くほど小さくなる。


 前を歩く彼女のヒールが、アスファルトを一定のリズムで叩いていく。


 酔っているわりに、足取りは思ったよりまっすぐだ。


「そういえばさ、名前聞いてなかった」


 横並びになったタイミングで、彼女がぽつりと言う。


 その横顔は街灯にかすかに照らされていて、酔いで赤くなった頬が、妙に現実感を持っていた。


「佐伯直哉」

「さえき、なおや。直哉君ね。私はルナ」

「本名?」

「さあ。今日はルナってことで、許して?」


 やわらかい声だった。


「了解。拾ってくれた人、ね」

「うん。拾って連れて帰ってる人」


 名前と同じくらいの軽さで、今夜の立ち位置が決まっていく。


 やがて、オートロック付きのマンションが見えてきた。外壁は白く、エントランスには観葉植物と間接照明。


 エントランスのパネルに鍵をかざすと、電子音がしてガラス扉が開く。


 冷房の冷気と、薄いウッド調の香りが流れてきた。


 エレベーターに乗り込むと、箱の中は冷房と、ルナの香水の匂いで満たされる。


 甘すぎない、少し大人寄りの香りだった。


「歳、いくつ?」

「二十一」

「そっか。現役大学生?」

「一応、籍だけは」

「ふふ、一応って便利な言葉だよね。私は二十三。ちょっとだけ先輩だね」


 「先輩」のところだけ、わざとらしくトーンを上げる。


 階数表示が五を指して止まり、廊下のいちばん奥、角部屋のドアが開く。


「どうぞ。靴、その辺でいいよ。荷物も、しばらくそのままで平気だから」


 玄関を上がると、右手にコンパクトなキッチン。


 その先は、十畳くらいありそうなリビングだった。


 L字のソファとローテーブル、大きめのテレビ。


 その両側に、背の高い観葉植物と間接照明。


 奥には引き戸で仕切られたベッドルームがあって、少し開いた隙間から、白いシーツと淡いグレーの布団カバーがのぞいている。


 床には脱ぎ捨てられたパーカーと、空のペットボトルが数本。


 スポーツバッグとゴミ袋を玄関脇に置く。


 ついさっきまで「追い出された証拠」だった荷物が、とりあえず「一時避難中の荷物」に格上げされる。


 それだけで、胸の奥の重さがほんの少しだけ軽くなった。


「そこ座ってて。ストロング様をグラスに移す儀式するから」


 ルナは素足でキッチンに立つ。


 缶をカチカチ鳴らして、氷の入ったグラスに注いでいく音が、部屋の静けさの中にそのまま響いた。


 言われた通りL字ソファの短いほうに腰を下ろすと、全身が沈み込むみたいに疲れを思い出す。


「はい、お疲れ直哉君」


 グラスが二つ、テーブルに置かれる。


 透明な氷の向こうで、ストロングのレモンが少しだけ薄まって揺れた。


 ルナはそのまま俺の隣、さっきのガードレールより少し近い位置に座る。


「振られて追い出された二十一歳と、やめとこっかされた二十三歳に、かんぱい」


 「かんぱい」だけ、いたずらっぽく、その響きが、グラス同士の軽い音より印象に残った。


「情報量多い乾杯だな」


 苦笑いしながらグラスを合わせる。


 さっきコンビニ前で缶から直に飲んだときよりも、少しだけ酒がおいしく感じた。


 しばらく、二人とも黙ってストロングを減らした。


 冷蔵庫のモーター音とエアコンの風の音だけが部屋で響いていた。


「さっきの、出てって」


 ルナが氷を指でつつきながら、会話の続きを拾う。


「急に?」

「急にだけど、急じゃなかった感じ。まあ、前から嫌な予感はあった」

「一応、『ごめんね』って言われた?」

「ああ、何回か」

「やさしいね、その人」


 ルナは声は柔らかいのに、どこか乾きが混じっている。


「こっちはごめんすらなかったよ。もうやめとこっかって。ああいうときだけ、やたら可愛い声出すんだよね」


 語尾だけ真似してみせる。


「なんて返したんだよ」

「『そうだね』。全然そうだねじゃないくせに」


 きれいに終わらせられてしまった側、という意味では、たぶん同類だ。


 俺は玄関の前で荷物を見て固まり、ルナはやめとこっかの一言で切られた。


 どっちも、主導権を持てなかった側だ。


「直哉君は?」


 不意に、名前を呼ばれる。


 さっきより少し低めの声で、耳の奥をくすぐるトーンだった。


「何が?」

「まだ好き? 追い出してきた人」


 視線をそらすほどの距離でもない。


 グラス越しに見つめられて、少しだけ呼吸が重くなる。


「……たぶん、まだ」

「だよね。顔がそういう顔してる」


 責めるニュアンスはなくて、ただ事実を確認する声だった。


「私もまだ、ちょっと残ってる。あの人。だからさ、真面目に考えたら、今こうして知らない男拾ってる場合じゃないのは分かってるんだけど」


 ルナはそう言って、グラスの中身を見つめる。


 氷が溶けて、アルコールの匂いが少しだけ薄くなっていた。


「でもさ、あるでしょ。今その人のこと真面目に考えたくない夜」


 グラスを持つ指先が、だるそうに揺れる。


「だからストロング飲む。そして知らない男を連れて帰る。……ね?」


 最後の「ね?」だけ、はっきり甘くなる。


 ひどい理屈なのに、声のせいで全部「しょうがないよね」で片づけられそうになる。


 グラスが半分くらいになったころ、ルナはソファの背にもたれて大きく息を吐いた。


 細い喉が、ごくりと動く。


 そのラインに、一瞬だけ視線が吸い寄せられる。


「でさ、今日の人生、今んとこ何点?」

「急だな」

「私は三十八点くらい。昼、普通に仕事してたときは七十点あったのに、やめとこっかで一気にマイナス叩き出して、コンビニでストロング買って、直哉拾って、今ここ」


 指を折りながらなんとなく計算している。


 あまりにも自然に「直哉拾って」が入っていて、こっちが一瞬言葉を失う。


「その中に、俺はプラスで入ってんの?」

「マイナスじゃないよ。ゼロよりは上。だから三十八点の中には一応入れてあげる」


 「入れてあげる」の言い方が妙に色っぽい。


 大げさでも何でもない評価なのに、酒と声のせいで、変な意味まで想像させられる。


「直哉は?」

「今日?」

「うん。今日の人生点数」

「昼までで六十点くらい」

「高いじゃん」

「起きたらまだ屋根あったからな」


 自嘲ぎみに言うと、ルナが小さく笑う。


 その笑い声が、さっきより半音くらい低くなっていて、それだけで少し酔いが回った気がした。


「玄関に荷物並んでるの見て、一気に何点?」

「マイナス五十」

「うち来て?」

「……今、ゼロくらい」

「ふふ、いいね、それ」


 ほっとしたみたいな顔で笑う。


 その横顔は他人事みたいに綺麗で、でも俺の今日の点数の中に、しっかり彼女が混ざっているのが分かる。


 グラスが空になったころには、部屋の空気にも慣れてきた。


 冷房の風がルナの髪を揺らし、その髪がときどき俺の肩に触れる。


 柔軟剤とアルコールと、少し甘い香水の匂いが混ざって、頭の芯だけふわふわしてくる。


 ルナは空のグラスをテーブルに置き、そのままソファの背にもたれた。


 体重が少しこっちに寄ってきて、肩と肩がはっきり触れる。


 さっきまで「可愛い」で済ませていた彼女が、そこでようやく現実として意識に浮かんだ。


「直哉」


 名前を呼ばれる。


 今度はほとんど囁き声に近い。


 声量は小さいのに、一音ずつがはっきり耳の奥まで届く。


「ん」

「今から、真面目なこと考えたい?」


 問いの中身のわりに、声には力が入っていない。


 その脱力が、逆に色っぽかった。


「……正直、あんまり」

「だよね。私も」


 ルナはソファの上で姿勢を変えて、片膝を俺の太ももに乗せる。


 Tシャツ越しに伝わる体温が、さっきよりあきらかに近い。


 髪が首筋にかすかに触れて、アルコールとは別の意味で心拍が上がった。


「今日くらいさ、正しいこと一回ぜんぶ置いとかない?」


 シャツの裾を指先でつままれて、軽く引かれる。


 たいした力じゃないのに、その一点に意識が全部持っていかれる。


 耳元に落ちてくる息が、さっきより熱い。


「明日後悔するのは、明日の私たちってことで」


 笑い混じりの声なのに、冗談には聞こえない。


 後悔って単語すら、ルナの声を通ると妙に甘く聞こえる。


 断る理由は、いくらでも思いつく。


 それでも、「この声で誘われて断れるほど、俺はちゃんとしてない」という事実のほうが、最初に頭に浮かんだ。


 そんなことを考えているあいだに、ルナの指先がもう一度シャツを引く。


 今度は布越しじゃなくて、肌に触れてきた。


「……しよっか」


 ストロングのアルコールより先に、ルナの声のほうが、いい感じに俺の頭を酔わせていた。

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