浮気された夜、コンビニ前で酔ったお姉さんに拾われた
Re.ユナ
第1話
その日は、予定を切り上げて、いつもより少し早く家に帰った。
玄関には、見覚えのない男物のスニーカーが一足、きちんと揃えて置いてある。
嫌な予感と共にドアを開けるとリビングから、笑い声が聞こえた。
ソファには、彼女と知らない男が並んで座っていた。
「……あ、直哉?」
こっちに気づいた彼女の声が上ずる。
男のほうも、気まずそうに姿勢を正した。
「悪い、俺、そろそろ帰るわ」
男はそう言って立ち上がると、テーブルの上のジャケットをつかみ、視線だけこちらをかすめて、玄関へ向かった。
何も言えないまま、玄関のドアが閉まる音がした。
「……今の、誰」
「会社の人。たまたま近くまで来たからって……」
彼女はテーブルの空いたグラスをまとめながら、目を合わせようとしない。
そのタイミングで、テーブルの上のスマホが震えた。
彼女が反射的に画面を伏せる前に、通知の一行が目に入る。
『さっきの続きはまた今度で』
そこで、だいたいのことは分かってしまう。
バイトを飛んだこと。
社会人の彼女に甘えて、家賃も光熱費も、ここ数ヶ月は多めに出してもらってたこと。
クズ寄りだって自覚はある。
だからといって、「浮気されても仕方ない」とまでは、どうしても思えなかった。
「……いつから?」
口をついて出たのは、それだけだった。
「別に、そういうんじゃないって」
彼女は空いたグラスをシンクに運びながら、曖昧な言葉を重ねる。
「じゃあ、さっきの続きって何の続き?」
自分でも、声が少しだけ荒くなっているのが分かった。
「見たでしょ、通知。あれ、どう説明すんの」
「だから、それは……」
そこで、一度言葉が途切れる。
そこから先は、よくある「どっちがどこまで悪いか」の話になった。
どれだけ言葉をぶつけても、テーブルに伏せられたスマホの画面だけは現実のままだった。
沈黙が続く。
エアコンの音がやけに大きく聞こえたあと、彼女が小さく息を吸う気配がした。
「……ごめん。もう一緒にいるの、無理だと思う」
そう言ったのは、彼女のほうだった。
◇
扉の前に、俺の荷物がきれいに並んでいる。スポーツバッグがひとつと、膨らんだゴミ袋が二つ。
ドアから、彼女が顔だけ出していた。
「……ほんとに、ごめんね」
泣き疲れたあとみたいな声だった。
「ごめんね、じゃなくない?」
それくらいしか、言えなかった。
「無理だよ。もう一緒に暮らすのも、こういうのも、全部」
こういうのに何が含まれているかくらい、分かっている。ただその自覚は、何も埋めてくれなかった。
「今日中に出てってほしいの。本当に」
「今日中って、もう夜なんだけど」
「終電は、まだ間に合うでしょ?」
そこで、彼女は目をそらした。
ドアが閉まり、内側でチェーンのこすれる音がした瞬間、さっきまでいた場所が切り離される。
ここは、最初から俺の家なんかじゃなかった。
足元の荷物は、片手でもどうにか持てそうな量だ。
二年分の生活を圧縮した結果が、これだけ。
廊下は、いつもより白く見えて、エレベーターの鏡には、少しやつれた自分が映っている。
とりあえず、鏡から視線をそらし、そのまま一階まで降りる。
実家に帰る、という選択肢はほとんどなかった。
泊めてくれそうな友達の名前を、頭の中でいくつか挙げてみる。
結局浮かんだのは、玄関で言い訳している自分の顔ばかりで、すぐに考えるのをやめた。
歩きながら財布を開けると、折り目のついた紙幣と、小銭が少し。
ネットカフェの一晩の料金を頭の中で割り算してみる。
(三日)
それだけ分かれば十分だった。
「……終わってんな」
とりあえず、明かりのある場所へ向かう為に、駅前のコンビニを目指すことにした。
◆
自動ドアが開くと、店内の蛍光灯が、真上から全部を白く照らしてくる。
酒の棚の前まで歩き、一番下の段を眺める。
ストロング系の缶が、味違いで横一列に並んでいた。
一番安いレモンを一本取る。
ついでに、ポテチをひと袋。
会計を済ませて、自動ドアの外に出る。
近くのガードレールに腰を下ろして、ストロングのプルタブを引いた。
一口飲むと、冷たさとアルコールが喉を抜けて、からっぽだった胃のあたりにゆっくり広がっていった。
「さて、どうすっかな」
ネットカフェ。
カラオケ。
公園のベンチ。
始発まで駅。
名前だけ並べても、どれも心が動かない。
ストロングをもう一口飲んだとき、自動ドアの開く音が背中のほうから聞こえた。
ビニール袋の擦れる音と、細いヒールの足音。
何となく振り向いた瞬間、彼女は盛大につまずいた。
「っ……」
短い息と一緒に、トートバッグが前方に転がる。
口が開いて、中身がアスファルトの上に散らばった。
財布、キーケース、ポーチ、スマホ。
小さな瓶と、丸められたレシートの束も滑っていく。
「うわ、やった……最悪……」
彼女は片膝をついた姿勢のまま、顔をしかめていた。
見ないふりをするには、近すぎた。
缶をガードレールの上に置いて立ち上がり、散らかったものをひとつずつ拾い集める。
「とりあえず、財布とスマホ、生きてます」
「あー……ありがと……」
顔を上げた瞬間、まず声が耳に残った。
少しかすれた、柔らかい声。
高くはないのに、よく通る。
そのあとで、顔が視界に入る。
派手なメイクってほどじゃないのに、目鼻立ちがはっきりしていた。
駅前ですれ違ったら、一度は振り返るだろうと思うくらい整っている。
アイラインが少し滲んでいて、目が少しだけ赤い。
泣いたあとなのか、酒のせいなのか、その両方か。
それでも、最初に浮かんだ感想は「可愛い」だった。
「これも」
地面の端に転がっていたキーケースを拾って差し出す。
「助かった……ここで鍵なくしたら、ほんとに終わるとこだった」
「そのわりには、酒はしっかり確保してるんだな」
手提げのビニール袋の中には、ストロングの缶が三本見えた。
さっき自分が買ったのと同じ銘柄も混じっている。
「そこ削ったら、帰れないもん」
彼女は疲れたみたいな笑い方をして、キーケースを胸元に押し当てた。
意味はよく分からないのに、今の彼女には本気でそうなんだろうと思えた。
「立てる?」
「チャレンジはしてみる」
そう言って、ひとりでゆっくりと立ち上がる。
ふらつきながらも、近くのガードレールまで歩いていった。
そのまま、どさっと腰を下ろす。
「うわ、世界二重。やば」
「三重になったら救急車呼ぶ」
「そういうこと言ってくれる人、好き」
小さく笑う。
笑い声と、少し照れた笑顔が印象的だった。
彼女は息を整えると、ビニール袋からストロングを一本取り出した。
「隣、いい?」
「どうぞ」
俺は少し詰めて、彼女が座れるだけのスペースを空ける。
肘が触れないくらいの距離。
プルタブを引く音がして、アルコールと彼女の香水の匂いがふわっと漂った。
近くで聞く声は、さっきより落ち着いている。
横顔だけで、「可愛い」の情報が十分すぎた。
「かんぱい」
「何に」
「今日、ちゃんとここまで帰ってきたことに」
缶を軽く合わせる。
頼りない音が、夜に沈んだ。
彼女は一口飲んで、長く息を吐く。
「で?」
「……で?」
「こんなとこで一人でストロングしてる理由。さすがに喉渇いたからじゃないでしょ?」
真正面から来る言い方だった。
知らない女に話すことじゃない。
でも、知らない女だからこそ、言えることもある。
「浮気されて、家追い出された」
事実だけを並べる。
「今日の夕方。今は無職、住所不定」
口にすると、胃のあたりが少し重くなる。
「以上」
「……フルコンボだね、それ」
彼女は目を丸くしてから、少しだけ口元をゆるめた。
「笑っちゃいけないんだろうけど、笑いが出るくらいには重い」
「笑わないで聞かれるよりは、ましかも」
「うん。まだ話せてるだけ、たぶん大丈夫」
どこがどう大丈夫なのかはよく分からない。
でも、妙に落ち着いた声だった。
「そっちは?」
「どっち?」
「そんなになるまで飲んでる理由」
「あー……」
彼女は缶のふちを指でなぞりながら、視線を落とす。
「こっちも似たようなもの。好きな人に、やめとこっかって言われてきた帰り」
「振られたの?」
「うん。ごめんねって顔で終わらされた感じ」
笑っているのに、声の奥が少し濁っている。
「だから、今日はあの部屋に帰りたくない。一人でいると、ろくでもないことばっか考えちゃうから」
「こっちは、帰る部屋がない」
「あ、それは強い」
つま先でアスファルトを軽く蹴る。
それからしばらく、二人とも黙って缶を傾けた。
遠くを走る車の音。
信号の電子音。
コンビニの自動ドアが開いて、また閉まる音。
夜の真ん中に、小さな空白ができているみたいだった。
「……ねえ」
缶の中身が少なくなってきたころ、彼女が横を向いた。
「なに」
街灯の光が、真横から彼女の顔を照らす。
滲んだアイライン越しに見える目の形が、静かにこちらを捉えていた。
頬は少し赤くて、さっきより呼吸が落ち着いている。
「ねえ、今日うち来る?」
「は?」
持ち上げかけていた缶が、そのまま止まる。
彼女は俺の顔を見ないまま、缶のふちを親指でなぞりながら続けた。
「私も一人でいるとロクなこと考えないし」
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