第5話:二日酔いの接客
その日は、世界の終わりだった。
夕方。大学の講義中。
スマホのニュースアプリに速報が流れた。
『人気若手俳優・神崎レン、未成年喫煙&熱愛発覚で芸能界引退へ』
……は?
呼吸が止まった。
神崎レン。私の推し。
私がバイトを掛け持ちし、レンタル彼女で笑顔を売り、カップ麺ですすって節約して、人生の全てを捧げてきた「神様」。
その神様が、死んだ。
目の前が真っ白になった。
教授の声が遠のく。
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。
先週の舞台挨拶で、「みんなの笑顔が僕の生き甲斐です」って言ってたじゃん。
あの透明感あふれる笑顔の裏で、タバコ吸って女と遊んでたの?
私の貢いだ金は、その女とのホテル代に消えたの?
ドロリとした吐き気がこみ上げる。
私は講義の途中で席を立ち、トイレに駆け込んだ。
吐いた。胃液しか出なかった。
帰宅後。
私は部屋中のグッズ(祭壇)を破壊した。
アクリルスタンドをへし折り、ポスターを引き裂き、写真集をゴミ袋に突っ込んだ。
涙が止まらなかった。
悲しいんじゃない。悔しいんじゃない。
「虚無」だ。
私の生きてきた意味が、全部ゴミになった虚無感。
「……飲まなきゃやってらんねぇ」
私はコンビニで、ストロングゼロ(ドライ)のロング缶を5本買った。
これだけあれば、記憶を飛ばせる。
現実(クソ)を忘れられる。
その夜、私は泥酔した。
部屋の隅で膝を抱え、空き缶を転がしながら、泣いて、笑って、呪いの言葉を吐き続けた。
「金返せ」「時間返せ」「青春返せ」。
気づけば、床で気絶するように眠っていた。
✎ܚ
翌朝。
地獄のモーニング・コール。
頭が割れるように痛い。
喉が張り付いている。
世界がグルグル回っている。
二日酔いだ。それも、人生最大級の。
スマホを見る。
『13:00 夏目智也様 予約』
……あ。
忘れてた。
今日、シフト入れてたんだ。
休みたい。
今すぐにドタキャンして、布団の中で死にたい。
でも、当日のキャンセルはペナルティが発生する。違約金二万円。
……金がない。
推しへの投資が紙屑になった今、私には借金と日々の生活費という現実しか残っていない。
働かなきゃ、死ぬ。
「……うぷっ」
込み上げる吐き気を水で流し込み、私はゾンビのように起き上がった。
メイクをする手も震える。
ファンデーションで顔色の悪さを隠し(厚塗り3回)、充血した目をカラコンで強制的に輝かせ、ヘアアイロンでボサボサの髪を巻く。
完成。
鏡の中には、完璧な「セナ」がいる。
中身は腐ってるけど。
✎ܚ
待ち合わせ場所の公園。
陽射しが殺人光線のように突き刺さる。
立っているだけで眩暈がする。
智也くんは、もう来ていた。
相変わらずのチェックシャツ。無駄に元気そうな顔。
「セナちゃん! おはよー!」
デカい声出すな。頭蓋骨に響く。
「……おはよぉ、智也くん♡」
声を出すだけで、胃が痙攣する。
笑顔を作るのに、普段の三倍のカロリーを消費する。
「あれ? セナちゃん、なんか顔色悪くない? 大丈夫?」
智也くんが心配そうに覗き込んでくる。
鋭い。
こういう時だけ勘がいいの、やめてほしい。
「ううん、ちょっと寝不足で……へへ、楽しみすぎて眠れなかったの」
とっさの嘘。
我ながらプロだ。こんな極限状態でも、営業トークが出るなんて。
「そっか……ごめんね、無理させて。今日、あまり歩かないプランにしようか?」
智也くんが気遣ってくれる。
映画館とか、カフェとか、座れる場所がいい。
切実に。
「うん、ありがと……智也くん、優しいね」
これは本心だ。
今の私の弱ったメンタルには、その無害な優しさが少しだけ染みる。
推し(クズ)に裏切られた直後だから余計に、目の前の「カモ」が誠実な人間に見えてくる。
金ヅルだけど。
少なくとも、こいつは私の前でタバコも吸わないし、他の女の影もない。
……まあ、モテないだけだろうけど。
私たちは公園のベンチに座った。
会話が途切れる。
普段なら私が話題を提供するけど、今日は脳みそが死んでいる。
沈黙が痛い。
「……あのさ、セナちゃん」
智也くんがポツリと言う。
「何かあった? 辛いこととか」
ドキリとした。
何でわかるの?
私の演技、完璧なはずなのに。
「……目、赤いよ? 泣いた?」
彼が私の目元を指差す。
マズい。充血、隠しきれてなかったか。
「……ううん、なんでもない。ちょっと、映画見て感動しちゃって」
嘘。
本当は、アイドルのゴシップ記事見て絶望して泣いただけ。
「そっか。……もし、誰かにいじめられたり、嫌なことあったら言ってね」
智也くんが真剣な顔で言う。
「僕、何もできないかもしれないけど……話くらいは聞けるから。セナちゃんの味方だから」
……味方。
その言葉が、胸の奥の変なスイッチを押した。
味方なんていないよ。
世の中、敵と、金と、搾取する奴しかいない。
あんただって、私が「セナ」じゃなくなったら、敵になるでしょ?
でも。
今の彼の目は、ひどく真っ直ぐで。
泥酔して荒んだ私の心に、土足で踏み込んでくるような、無神経な温かさがあって。
少しだけ、泣きそうになった。
「実はね、推しが引退して死にそうなの」って、言えたらどれだけ楽か。
「本当は私、性格悪くて貧乏で、あんたのことカモだと思ってるの」って、ぶちまけられたら。
……うぷっ。
感傷に浸ろうとした瞬間、胃袋から強烈なリバース信号が送られてきた。
ストロングゼロの逆襲だ。
キャパオーバー。
「……ごめん、ちょっとトイレ!!」
私はロマンチックな空気を粉砕し、ダッシュで公衆トイレに向かった。
「えっ、セナちゃん!? 大丈夫!?」
背後で智也くんの声。
大丈夫じゃない。
個室に入り、便器を抱える。
嗚咽。
涙と鼻水と胃液でぐしゃぐしゃになる。
……最低だ。
デート中にゲロ吐くNo.1キャストなんて、前代未聞だ。
でも、吐いたら少しスッキリした。
毒(推しへの未練)も一緒に吐き出した気分だ。
鏡の前で化粧を直す。
顔色はさらに悪い。
でも、不思議と憑き物が落ちたような顔をしていた。
「……稼ご」
私は呟いた。
推しはいなくなった。
でも、借金と生活は続く。
新しい推しが見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。
どっちにしろ、金は必要だ。
そして、外で待っているあの「カモ」は、まだ私を待ってくれている。
私は口紅を引き直し、「セナ」の仮面を被り直した。
さっきより少しだけ、仮面が皮膚に馴染んだ気がした。
情けない姿を見せても、まだ待っていてくれる人がいるという事実が、私の背中を少しだけ支えていたから。
(つづく)
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