『少し違った冬の日記』
ロケットゴースト
『日記――少し違った冬』
社会人になって数年が経った。
今日は久しぶりに早く帰宅できたが、身体の奥に溜まった疲労は簡単には抜けない。ジャケットを脱ぎ、パンプスを揃え、ため息と一緒に照明をつけた。
部屋は静かで、整理されすぎているほどだった。
何となく、棚の奥に置いていた段ボール箱を引き出した。
中には、もう使わなくなった書類や、昔のノート、色あせた封筒が無造作に詰め込まれている。掃除のつもりだったはずなのに、手は自然と一冊の古い日記帳を掴んでいた。
――そうだ。
これは、あの冬の。
表紙を撫でると、当時の空気が一気に胸に押し寄せてくる。
私は二十三歳になった今でも、あの数週間をはっきりと思い出すことができる。
あれは学生時代、学校の交換留学プログラムに参加した時のことだった。
本当はヨーロッパのどこかに行きたかった。歴史ある街並みや、石畳の道を歩く自分を想像していた。でも、配属先として告げられたのは、まったく別の場所――ラテンアメリカの国だった。
理由は分からない。ただ「決定事項です」とだけ言われた。
その瞬間、期待よりも戸惑いの方が大きかったのを覚えている。
到着したのは十一月の終わり。
空港に降り立った瞬間、空気の匂いが違った。冬のはずなのに、冷たさはなく、湿った温もりが肌にまとわりつく。
出口で私を待っていたのは、交換留学先の家族だった。
みんな、驚くほど明るかった。
手を振り、笑顔で声をかけてくる。でも、何を言っているのかは一言も分からない。私も彼らの言葉を理解できないし、彼らも私の言語を話せない。
ただ、騒がしい。
それが最初の印象だった。
家に着いてからも、状況は変わらなかった。
食卓では全員が同時に話し、笑い、身振り手振りで会話を続ける。私は椅子に座り、皿を前にして、ただ黙っていた。
食べ物の匂いも、見た目も、私の知っているものとは違う。
正直に言えば、苦手だった。
日が経つにつれ、私は部屋に籠もるようになった。
用事がある時と食事の時だけ外に出る。それ以外はベッドの上で過ごし、窓から外を眺めていた。
文化も、言語も、距離も、すべてが高い壁のように感じられた。
「ここは、私の居場所じゃない」
そんなことばかり考えていた。
時には、この国そのものを嫌いになりそうになることもあった。
そんなある日、部屋のドアが静かにノックされた。
開けると、同年代の男の子――交換留学先の兄弟が、ノートを差し出してきた。
そこには、私の言語で書かれた文章があった。
文法は少しおかしくて、文字もぎこちない。でも、必死に書いたのが伝わってくる。
「うまく話せなくてごめん。
君が楽しんでいないように見えて、家族みんな心配している」
胸が、少しだけ痛んだ。
その夜、私は部屋に戻り、同じノートに返事を書いた。
ここが怖いこと。
食べ物が合わないこと。
みんなが話しているのに、自分だけ理解できない孤独。
数時間後、私はノートを持って再びドアを開けた。
それが、すべての始まりだった。
それからというもの、私たちは言葉の代わりにノートで会話をするようになった。
朝、食卓に置かれたメモ。
夜、部屋のドアの前にそっと差し込まれる返事。
完璧な文章ではなかったけれど、不思議と気持ちは伝わった。
彼は私のことを「交換留学の妹」だと言い、私は冗談半分で彼を「交換留学の兄」と呼ぶようになった。
ある日、ノートにこう書かれていた。
「少しだけでいい。
新しいことを試してみてほしい。
全部好きにならなくていいから」
その言葉を読んだ時、胸の奥で何かがほどけた気がした。
確かに私は、何も受け入れようとしていなかった。
遠い国に来ていながら、自分の世界に閉じこもっていただけだった。
十二月に入ると、街の空気が変わった。
夜になると外から音楽が聞こえ、人の声が増え、どこか浮き立つような雰囲気が漂っていた。
十一日、家族全員が旅行の準備を始めた。
首都へ向かうらしい。
理由は宗教的な行事だと兄がノートで説明してくれたが、正直よく分からなかった。
「一緒に行く?」と聞かれたけれど、私は首を横に振った。
信じていないものに参加する理由が見つからなかったからだ。
彼らは無理に誘わなかった。
冷蔵庫に食べ物を用意し、「明日帰るよ」とだけ書き残して出かけていった。
残された食事は、見たこともないものばかりだった。
正直、口にするのが怖かった。
でも空腹には勝てず、少しだけ味見をした。
――不思議な味だった。
一口の中に、いくつもの風味が重なっている。
慣れないはずなのに、次の一口が止まらなかった。
気づけば、皿は空になっていた。
翌日、家族が戻ってきた頃には、私は少しだけその国の味を受け入れ始めていた。
十六日になると、家の中が急に慌ただしくなった。
兄は「ポサーダ」と書いた。
意味を尋ねると、近所を回って行う小さな集まりだという。
宗教的な行事であることは分かったが、形式はどこか温かそうだった。
その日は彼らだけで出かけ、帰ってきたのは一時間後。
手には大量の食べ物があった。
しかも、すぐにまた出て行った。
「一日に二回?」と書くと、兄は笑顔の顔文字を描いた。
驚いたのは、それが毎日続くということだった。
十六日から一月六日まで、ほぼ毎日。
翌日、私は初めて同行することにした。
理由は単純だった。
食べ物が美味しかったから。
集まった人の多さに、最初は圧倒された。
皆がろうそくを持ち、歌い、祈る。
宗教的な意味は理解できなかったけれど、空気は穏やかで、誰も私を無理に巻き込もうとはしなかった。
儀式の後、紙皿に盛られた料理と、温かい飲み物を渡された。
「アトレ」と呼ばれるそれは、とろりとして甘く、寒い夜に驚くほど合っていた。
何度か参加するうちに、人の多さにも慣れていった。
知らない場所なのに、不思議と怖さは薄れていった。
二十四日、そして二十五日。
私の知っている冬とは、まったく違うクリスマスが始まった。
この国では、その日は贈り物の日ではないらしい。
子どもたちが騒ぐこともなく、ただ家族が集まる日だった。
家には、今まで見たことのない人数の親戚が集まった。
笑い声、音楽、料理の匂い。
私は途中で部屋に戻ったけれど、ドアの隙間から聞こえる楽しげな声に、胸が少し温かくなった。
窓の外では、子どもたちがボールを追いかけていた。
夕暮れまで続くその光景を、私はただ静かに眺めていた。
二十五日から三十日まで、家では同じ料理が何度も食卓に並んだ。
最初は驚いたけれど、理由を聞いて納得した。
この時期は親戚や客人がいつ来てもいいように、たくさん料理を作るのだという。
同じ素材でも、調理法を変えることで全く違う味になる。
昨日は煮込みだった肉が、今日は焼かれ、明日は細かく裂かれて別の料理になる。
私はその工夫に感心しながら、少しずつ箸を進めていた。
気づけば、最初に感じていた拒否感は消えていた。
むしろ「今日は何が出てくるのだろう」と考える自分がいた。
そして、大晦日。
またしても大量の料理が並び、家族全員で食事をした。
頭では「もう限界だ」と思っているのに、胃は次の一口を待っている。
不思議な感覚だった。
食後は、テレビで映画を観た。
台詞はほとんど理解できなかったけれど、内容は何となく分かった。
兄が時々、簡単な言葉で説明してくれたからだ。
その夜、私はふと気づいた。
ここに来たばかりの頃より、ずっと自然に笑っている自分に。
だが、滞在期間はもう終わりに近づいていた。
帰国の日が迫るにつれ、最初に感じた安堵とは別の感情が胸に広がっていく。
――寂しい。
そんな気持ちを認めたくなくて、私は日記に何も書けずにいた。
一月六日の朝、家の中が妙に静かだった。
けれど、五歳の弟――私の一番小さな交換留学の弟は、まだ暗いうちから飛び起きていた。
理由はすぐに分かった。
クリスマスツリーが、まだ飾られたままだったからだ。
この国では、この日に「レジェス・マゴス」という存在が子どもたちに贈り物を持ってくるらしい。
宗教的な由来は理解しきれなかったが、子どもたちの期待に満ちた表情を見ていると、そんなことはどうでもよくなった。
弟が包みを開けて喜ぶ姿を見ていると、自然と笑みがこぼれた。
その時、家の両親が私の前にも小さな箱を置いた。
「君にも」と、兄がノートに書く。
中には、手編みのマフラーと手袋、そして帽子が入っていた。
帽子には、私の好きな音楽バンドのロゴが付いていた。
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
言葉が通じなくても、気持ちはこんなにも伝わるのだと知った瞬間だった。
朝食には、「ロスカ・デ・レジェス」という大きなパンが出された。
王冠のような形をしたそのパンは、色とりどりの飾りで彩られていた。
兄に勧められ、私が最初に切り分けた。
何もないと思ったその中に、小さな人形が隠れていた。
家族が一斉に笑い、拍手をした。
私は状況を理解できず、戸惑った。
説明を聞いて、ようやく意味が分かった。
人形が当たった人は「王様」になり、後日、皆に食事を振る舞うのだという。
冗談のような伝統だった。
でも、その話し方はとても優しく、温かかった。
数日後、私は帰国した。
空港で別れを告げる時、涙が出そうになった。
自分でも驚くほど、この場所を大切に思っていた。
飛行機の中で、私はようやく理解した。
この冬が教えてくれたことを。
宗教でも、贈り物でもない。
人と人が集い、同じ時間を過ごすこと。
その記憶こそが、心に残るのだと。
――日記を閉じ、私は現実に戻る。
段ボールの底には、あの時もらった帽子と手袋、マフラーがあった。
私はそれらを手に取り、そっと抱きしめた。
最後に残っていた一枚の写真には、あの家族全員が写っている。
私は微笑み、携帯電話を手に取った。
もしかしたら、この冬に感じたあの温かさを、私の本当の家族にも少しだけ持ち帰れるのかもしれない。
どうしてあの家族のように、私たちは寄り添えなかったのだろうと、ずっと考えていた。
でも、足りなかったのは大きな理由ではなく、ほんの小さなきっかけだったのだと思う。
そう思いながら、久しぶりに実家へ電話をかけた。
『少し違った冬の日記』 ロケットゴースト @Rocket_Ghost
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